彷徨 創刊号

目次

1. 所感  芳野武雄
2. 早稲田大学ワンダーフォーゲルに就いて斯く考える  安田平八
3. 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 部則
4. 山で思い出した事  山本稔
5. 高原の秋  第一政経学部経済科四年 河野豊二郎
6. 山登りを勉強しないで欲しい WWVの部員諸君へ  長谷部成美
7. 道標 上黒平-水昌峠ー金峯山  佐野哲也
8. 岳人入門第一章  長谷部光郎
9. 霧の日に寄せて 栗原三郎
10. 或るワンデルングにて たちはやを
11. 雨の谷川岳  柳和夫
12. 一新人の手記  覚野久雄
13. 北アルプスの初印象  田中昭男
14. 山のたのしみ  安達啓三
15. 「ユース・アーガスイを迎えて」  里見昭二郎
16. 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 名簿(住所省略)
17. 昭和25年度7月以後 事業記録
18. 編輯後期 眞野 秦一


 

1. 所感

 
芳野 武雄
 
楽しみながら心身を鍛練する方法は種々ある。庭球、野球、水泳等々は適当に行っておれば上記の目的に合するが、場所的な制約がある。一定の空間を数回往復する運動に特に精神的な疲労を伴い勝ちである。又勝敗にこだわる運動は一種のショー的なものとなる。インドアのスポーツは汚れた空気中に行われるから全面的に良結果が得られない。
凡ての事柄に於いて一長一短を免れないのは自然の摂理であるが、比較的に心身鍛練に無理のない運動は、ワンダー・フォーゲルであると思惟する。新鮮な空気を十分に吸い、明るい日光の下、場所的な何等の制約もなく、登山技術に於ける身体の無理使用もなく、団体的な行動にも至便で、自然に融合し、懐古趣味に耽り、心行く迄楽しみ、知らず知らずの内に、自己生成の跡が確認出来るのである。
若きワンデルンよ、凡てに無理なく(具体的に表現すれば、一日中の歩行道程、経費等々)あせらず、他に誇示することなく、人生の道を往く如く、悠々として他に遠慮なく、自己のペースを持続して、或は山行を、沢登りを、海辺を行きなさい。
 

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2. 早稲田大学ワンダーフォーゲルに就いて斯く考える

 
安田 平八
 
我々がしている事、或はしようとしている事は、自然を愛する事、自然を楽しむ事、自然に還る事なのである。これは部則の目的の項にも書いているのであるが、こんな単純な事で、口角泡を飛ばして議論したり、あげくの果てに喧嘩迄し兼ねない様な事になるのであるが、それは何であろう。これは自然を愛するとか、自然に還るとかいう言葉が抽象的である為、真意の意味が把握できていないからであろう。併し真の意味を把握するといっても、別に難しい事はない単純に考えれば良い。要するに、「自然を楽しむ」という事に徹すればよいのである。
抑々ワンダーフォーゲルというものがドイツから来たものである事は周知の通りであるが、そのドイツの原型のワンダーフォーゲルと現今の日本におけるそれとは、非常に異なったものになっている。その歴史・原因・内容等々については、ここで別に述べる気はないが、ドイツから輸入された日本のワンダーフォーゲルが、日本に於いて、その形態、その内容等々について異なって来るのは当然である。かかる運動はそれぞれの歴史的背景、地理的環境及び民族性の相違等々によって当然違ったものに発展していく訳である。現在の全日本学生ワンダーフォーゲル連盟においても、その加盟諸校はそれぞれ独自の性格を持ち、勿論多くの面に於いて共通点を持つのであるが、互に相容れない面もある。それぞれの学校により形態、性格、内容等々の相違があるのは当然なのであり、又これで良いのである。
然らば我が早稲田大学ワンダーフォーゲル部は、如何なるものであるか。冒頭に述べた如く、自然を愛し、自然に還り、自然を楽しむ事を我々は第一義としている。無論、国土遍歴による祖国愛の昂揚というようなワンダーフォーゲル本来の目的も捨てはしない。あわせて行っているのであり、あわせてその目的としているのである。が何といっても我々の第一義は「自然」に対してである。前述した如く、我々はワンダーフォーゲルの名を冠しているが、無論ドイツの原型に縛られる訳ではなく、日本における在来のものに縛られるものでもない。その形態、内容が幾ら離れても、その意とする処さえ誤らねば構わないのである。我々は従来の日本のワンデルンが山に自然の対象を求める事が多かったのと同様に、天張り、大体においてその対象を山に求めている。しかし我々は、その対象が山でなくて、海であっても、川であっても、又田野であっても構わない。山に行く場合、どんな山を登っても構わない。どんな高原を彷徨しても構わない。よく高山趣味とか低山趣味とかを論ずる人があるようだが、そんな事は全く問題でない。例えば未登攀ルートを初登攀し、それで本当に自然を楽しめるならば、それも良かろう。又温泉宿からケーブルカーで山頂に達し、その展望などによって、自然に還る心が得られるのならば、それも結構である。
結局、何をしても良いのである。只謙虚な気持ちで自然を愛し、自然を楽しみ、自然に還れば良いのである。逆にこの気持ちなくして山に入ったならば、いくら嶮しい山を登っても、又いくら多くの高原を歩いても、我々の行き方としては全く意味のないものである。我が部員としては、斯様な実のない山登りは最も避く可きものであって、本当の自然を愛し、自然を楽しみ、自然に還るという事を観念的な理論だけでなく、その感情として持つ事が最も望まれるものである。
最後にワンデルンは何をしても良いという事を先程述べたが、これは個人としてのワンダリングについて特に言えるのであって、部として形成している以上、特に合宿の時などにおいては、団体生活という事の為に、又部の統率の為にも、それだけの或る程度の強制は必要なものであり、止むを得ず課せられるものである事は云うまでもない。
そしてこの団体生活の内に我々はドイツのワンダーフォーゲルとの共通精神を見出し、青年運動としてこれを推進したい希望を持つのである。
 

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3. 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 部則

 
第1章 総則
第1条 この部は早稲田大学ワンダーフォーゲル部と称する
第2条 この部は自然を愛し楽しみ部員相互の親睦向上を図る事を目的とする
第3条 この部の事務所は東京都新宿区早稲田大学学園内に置く
第4条 この部は第二条の目的を達成する為左の事業を行う
 1.登山、スキー、ハイキング、キャムピングその他各種のワンダリング
 2.それに伴う各種諸研究
 3.その他この部の目的達成の為の必要な事業
第5条 この部は早稲田大学学生の会に所属する
 
第2章 部員
第6条 早稲田大学学生、生徒はこの部の部員となることが出来る
第7条 部員は入部金として定められた金額を入部と同時に納入しなければならない
第8条 部員は部費として定められた金額を毎月拠出しなければならない
 
第3章 役員
第9条 この部は左の役員を置く 部長 一名 幹事長 一名 幹事 若干名 時により評議員若干名を置く事が出来る
第10条 部長は早稲田大学教員である事を要しこの部を統括し代表する
第11条 幹事長及び幹事は部員たる事を要し部の業務運営に携わる
第12条 幹事は幹事長をも含めて幹事会を組織する 幹事会はこの部の中枢決議機関として部の重要事項を協議する
第13条 幹事会は部員中その資格を有すると認めた者に対し正部員として指命する
第14条 評議員は幹事会に出席し幹事会の協議に加わる事が出来る
第15条 部長以外の各役員の任期は一か年とする 但し重任を妨げない
第16条 幹事長幹事評議員は前年度幹事会の指命によって定められる
 
第4章 会議
第17条 この部の会議は総会幹事会部員会とする
第18条 会議はすべて幹事長が之を召集する 総会を招集する場合は、予め日時場所及び主要の議題を通知しなければならない
第19条 総会は毎年度一回定期総会を開催し、前年度事業報告及び会計報告をする
第20条 定期総会の外、幹事会が特に必要と認めた場合及び正部員過半数の要求ありたる場合には臨時総会が開催せられる
第21条 総会は在学正部員及び正部員卒業者によって行われ、この部の最高決議機関である
第22条 幹事会は毎月一回以上開催する
第23条 幹事会は部の運営に関する一切の責に任じその議決は総会によるの外変更される事はない
第24条 幹事会が必要に応じて部員会を開催する
第25条 この部の会議はすべて多数決制に従う
 
第5章 会計
第26条 この部の経営費は部費入部金寄付金及びその他を以って之にあてる
第27条 部費及び入部金は幹事会に於いて定める
第28条 会計年度は毎年四月一日に始まり、翌年三月三十一日に終る
第29条 この部に対する寄付は幹事会の議を経て之を受領する
第30条 幹事中一名を会計係とする
第31条 会計は幹事長が之を管理する
 
第6条 附則
第32条 総会及び幹事会は左の者に対して除名退部謹慎及び譴責などの罰を与えることができる
 1.部の目的に反する行為をなしたる者
 2.部の事業に対する熱意なき者
 3.その他部則に反する行為をなしたる者
第33条 この部則の変更は総会における過半数の決議をへなければならない
第34条 この部則は総会の承認をうけたるときより実施する
 
この部則は昭和二十五年十月二十二日第三回総会証人により実施する
 

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4. 山で思い出した事

 
山本 稔

新宿駅のフォームには既に部員が大部分集合して居り、楽しそうに話し合っていた。其処には大きなザックが並び、ピッケルが無造作に立て掛けられてあった。私が未だ中学の三年の頃、当時の山友達Aと同じ汽車を待っていた時の光景が眼に浮んだ。私達はキスリング、ニッカーに山靴という小生意気にも一応の出立であった。
其の時、私達の前をピッケルを引提げ、巨大なザックを背負った数人のごつい山男が通り過ぎた。中には尻敷を下げ、チロルを被った勇ましいのも居た。私達の羨望の的であった。当時は戦争の真最中であったので、ピッケル等欲しくとも町で其の姿さへ見られらかったのである。
やがてAが、「早くあんな齢になりたいなァ」と言った。私もうなづいて暫くジット後姿を見守っていた。
剱沢小屋で囲炉裏を囲んで文蔵さんから能打ちの話を聞いていたら、子供の頃憧れたアフリカ探検の夢を思い出した。未踏の大自然へ行って見たくてならなかったのだろう。仏領コンゴの地図を研究し、「コンゴ紀行」や「スタンレー探険記」等読んだものだった。
古い山日記の一頁に、「平和であり、自由である山に来た。・・・・。」という書出しがあった。私は現在の流行語が、其れも娑婆を去る二、三ヶ月前に書かれたのかと思うと、不思議であり又懐かしかった。
自然に覆われた勇壮なフェルゼン・ギッフェルを6峯迄並べた北屋根を左に、ザイテン・グラードの急斜面を一歩一歩登って行った。夕陽に白出乗越は、其の美しいカールを橙色に輝していた。何度もラッセルを交替したが、少しも近づく様に思えない。あせればあせる程、足が潜る。
私は未だ十五・六の頃浅間麓へHと二人でハイキングに行った時の事を思い出していた。積雪が深く道に迷い散々な目に会ってしまったのである。私達は三月と云えば雪等未だ残っているとは想像もせず、ガイドブックを頼りに、地図もなく(当時は中々買えなかった)気楽な気持ちで出発したのであった。それでスッカリ驚いてしまったのである。不安な気持ちで一杯になり、引返したり進んだりしてやっと北軽井沢に着いたのは、三時を廻って居た。其処で別荘村の庭園を拝借して昼食と云う事になった。急に嬉しくなって色々話し出した。体はガタガタ震えるし、手はかじかんで思う様に動かない。焚火をしようか、と云う事になったが、二人共動かない。
氷のような手で、やっと竹皮包みを取出した。開けて見ると中には、其の形態を止めない稲荷寿司があった。私は急に家の温かい空気に接し、母の顔が眼前に彷佛し目頭が熱くなった。Hも無言であった。
第一回ワンダリングの時、私達は金峯の五丈石の上に立って地図を開いていた。雲一つ無い快晴で展望は素晴しかった。突然其の地図は、Y君の手を離れ大空高く舞上った。そして気流に乗ってドンドン上昇し遂に見えなくなってしまった。恰も我等の前途を祝福するが如く。(完)
 

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5. 高原の秋

 
第一政経学部経済科四年 河野 豊二郎

しとしと降る雨をついて、私と友人Hの二人は駆込む様にして、発車間際の汽車に飛び乗った。未知への旅は私達にとっては、此の上なく心楽しいものである。旅に出る事は日常の生活環境から抜け出ることであり、旅の嬉しさはかように解放される嬉しさである。夜汽車の中の電燈は暗く沈うつした空気の中で人々は深い眠りに落ちている。私は汽車の中では眠れぬくせがあるので、ねむけ覚ましに静かに窓を開け外の空気を吸う。
夜風が冷たく肌にふれる。降り続いた雨もいつしか止み、折しも空間から仲秋の月がぬれこけた窓に差込み、人々の寝顔を輝らす。
高崎、横川を過ぎ、夜が明けはじめたのは軽井沢辺だった。東の空がボーと、赤らみ、見ると浅間の裾野が雲の切間よりぼんやり眺められた。
浅間山は未だ、見えない。高原の涼気が身にしみる頃沓掛駅に着いた。ここで十人位の登山者が三々五々と降りて行った。やがて彼等は遠くの霧の中に消えてしまった。彼等の姿を私はじっと車窓から眺めていたが、何か我々と共通したものが彼等の心の中に流れているに違いない。彼等も又、私達と同じ様に、人間世界のじめじめした現実界を想像の世界に引きあげて、冥想的な世界を創造する気分にひたろうと云う一種浪漫的な気持ちを抱きながら山を登って行ったであろうと一人考えながら、再び車中のひととなった。私達は上田で降り、電車で真田迄それからバスで三十分、菅平口にて降ろされ、後は旦々とした自動車道路を話もせず登っていった。途中ガスに巻かれ大明神沢にかかる頃から霧雨に変わり雨は下着を通し寒さが加わって来た。私達二人は雨の中を丸太に腰を据え朝飯をすまし再び歩き出した。一人として往くもの、来る者もない。然しこう云った。静寂の中に真の旅は味ははれるのではなかろうか。人はさまざまの理由から旅に上るであろう。人生がさまざまであるように、旅もさまざまである。然しながら、どのような理由から旅に出るにして、全ての旅には旅としての共通の感情がある。
一泊の旅に出る者にも、一年の旅に出る者にも、旅には相似た感慨がある。恰も、人生はさまざまであるにしても、短い一生の者にも、長い一生の者にも、すべての人生には人生としての共通の感情があるように。又旅はすべての人に多かれ少なかれ漂泊の感情を抱かせるのである。解放も漂泊であり、脱出も漂泊である。そこに旅の感傷がある。
やがて私達は菅平高原の一角に立って、その平和なのびのびした心持を体験した。終日の旅に疲れた旅客が平和に身体を横たえる麓の宿の煙りを峠から遠望するような平和な希望に富む心持を体験する。又時としては、かって雲に蔽われた赤城の裾野を行った時抱いたような哀愁に充ちた。はかない浪漫的な気分すらも体験する。そして又瞑想しながら通った、八ヶ岳の裾野の悠々たる広場にのびのびとした自らを浮べ、自らを整頓する余裕をも体験する。しかし何れにしても高原の気分は沈静的であり、情操的である。こうした気持ちを抱くことが浪漫的であり、それが山に登る人にとって不必要な気分であり、又それが登山者でないことの証拠であるという人があれば、それは登山を人間生活以外にしめだすことであり、或る意味に於いてそれに人間性を認めないことであろう。高原は私達をして、最も純粋な自己の姿に於て自然を観照せしめ、それと融合せしめる。柔らかいものの内に強いものを体験せしめる。そういうものを含む高原の観照は、絶えざる努力であり?いであるように見える登山とは?に外面的には異なっている場合もありうる。そういう意味で私は高原に於いて歓喜を感ずる。
私は高原が好きだ。山岳は絶えず自らを超越しようとする努力の、また闘いの気分の象徴であるとすれば、高原はそれを一歩、静観的ならしめると共に、現実と理想との最もよく調和された現実世界の緑地である。又全身雨にぬれて私達は小高い宿に飛び込んだ。
今夜は此処に泊めてもらうべく訪ねて、宿のおばさんに部屋を案内してもらう。めずらしい客とみえて一番良い部屋に通された。間は十畳、北側は全部硝子戸になっていて部屋は明るい。その硝子戸を通して霧の中にボンヤリ白樺の木が二本、すでに黄色くなった葉を残して立っているのがみえ、下は一面の芝草らしい。
私達はぬれた下着を乾かし着がえをし、おばさんに言って風呂に入る。二人で満員の風呂は普通の家にあるのと同じ型をしているがどこか違うらしい。然し何といっても山に来て風呂に這う入れる位楽しく又のんびりしたものはない。湯から上がって来ると、今迄霧に包まれていた高原がからりと晴れて秋色濃き菅平高原は絵の様に美しい。猫岳、四阿山の頂が夕日に赤く色彩り遥かに遠く浅間山が雲の様な煙をなびかせていた。
私達は夕食前の一時を高原の涼気にひたろうと白樺並木の路を通りぬけて北信牧場とある標を見ながら牧場の柵を乗り越え芝生の上に寝ころび遥か遠くの北アルプスの峯を眺めながらいつまでもそこを立ち去ろうとしなかった。白馬や後立山の頂はすでに雪で白く光っていた。近く戸隠の峯みねが黒く長く尾を引き朝日山の影に消えている。この美しき自然の中で私は漂泊の旅はつねにさだかに捉え難いノスタルヂヤが伴っていることを感じた。人生は遠い、しかも人生はあわただしい。人生の行路は遠くて、しかも近い。我々は我々の理想に従って人生を生きている。人は誰でも多かれ少なかれユートピアンである。
旅こそ人生の姿である。
やがて夕闇せまる頃私達は高原に咲く梅鉢草の白い花を拾いながら、坂道を宿の方へ登って行った。着くともうすでに食事が用意されてあり、楽しい宿での一時を、そこのおじさん、おばさん等をかこみ、山の伝説や山の旅、スキーの旅の事を話しながら、長い秋の夜を語りあかしたのも記憶に新しい。かって私は高原の新緑や小梨の花を見て、魂の奥底から洗い清められる気持になり、時鳥や郭公を聞いて、自分の歩いている世界の如何に静かであるかを感じた新緑の蓼科高原や八ヶ岳高原をさ迷い歩いた過去の夢を再び想い起こさずにはいられない。
すっかり暗くなってしまった高原の夜空に月が光々として照り輝き部屋一面に差込んでいる。再び高原には静かな平和がよみがえってくる。秋の訪れと共に。そして私は今でもあの静かだった宿のしんみりした気分が、どこか心の底に未だ残っているような気がする。私はもう一度あの高原に行ってみたい。そして静かなのびのびした雰囲気にひたってみたい。以上
 

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6. 山登りを勉強しないで欲しい  WWVの部員諸君へ

 
長谷部 成美

某山岳雑誌のアンケートに女流山岳家と称せられる某女子が「劔を各方面から勉強したいと思います。」と返事している。一寸良識のある人ならば奇異の感に打たれるだろう。一体山登り(岩登りも含むが)勉強という言葉で表現するものかどうかと言う事だ。英語を経済学を勉強するというなら勿論解る。新聞でも、国際問題を勉強するというならまだ意味は通じるであろう。だが山登りを勉強するというに至っては日本語の勉強から先にして貰わねばならないだろう。勿論これは山登りを職業にしている君の言葉だから無理もないかもしれない。何故ならば自分の持ち分に強いて勉めねば落伍して行くのが現代社会だからだ。これは一言?句をとらえてとやかくいうのではない。多かれ少かれ、この山を勉強するという思想が若い学生や社会人の山好きな人々に多いようである。
どんなに高く登ろうとも、どんなに多くの山々を歩き回ろうとも、また如何に困難な岩を攀じようとも、それは彼に何のプラスもない。職業登山家でない限り、彼の目的は外にあって山登りは単なる「遊び」の域を一歩でも出ないからだ。だが山登りはスポーツである。心身の鍛練であると云う反論も出るかも知れない。スポーツは勉強するものでもなければ、心身の鍛練は外の事でも出来る。こうして見て来ると山登りは遊びであると云う事にならざるを得ない。
早大ワンダーフォーゲル部諸君は、この山を遊ぶべく非常に良い環境にあるわけだ。高山に挑むもよし、野を散策するもよい。ポーラもラッシュも又よいだろう。社会に出ればなかなか暇はないものだ。今のうちに大いに登り、歩いた方が得である。しかし山登りを勉強しないで欲しい。
 

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7. 道標(常に自己を提出しつつも先輩の定めて行ったケルンを辿ってゆきます) 上黒平-水昌峠ー金峯山

 
佐野哲也

第一信 上黒平より

H君 此の前には三ッ峠山頂よりスタンプ押しの葉書を送ったが、あれから長い間音信が絶えていた。一体君はその後どうだと云うのだ!現在僕らの周囲はあまりにも激しい、絶え間なく打ち寄せて来る怒濤は限りないのだ!そして今、此を外にして僕はすべて忘れ山の一日を静かに迎えそしてまた見送ろうとしているのだ。しかし君よ、あまりの騒然たる世の激流の中で新鮮な時代的関心を失い、脆弱な精神が居たたまれなくなったと思ってはいけない。確かに、歴史的社会の現実は人間性の自己疎外にまで追いやられている。それだけに生半可を許さない、おおきな生の潮流はその脈搏が激しい。然しそうした時代だけにその中で彷徨する僕は自分の中に住む荒々しい感情が自らをして生甲斐あらしめる様に思わしめるのである。しかし君よ、、、僕は更に告げたい、山から下り来る者そして山に登り行く者の二つの心があることを忘れてはならない。社会に活動し社会に同化せんとするすべての人がそうであるように僕もまた、少しでも社会の人々と協力し社会に参与し歴史の歯車を前方に進転せしめんと努める者の一人でありたい。それは山を下りて社会の中に沈下してゆく人である。しかし人は出先で最も懐しく思い出されるのは故郷である。生活人として僕もまた自然への憧憬は止む難く打ち消し難い。時に応じ日常の雑事を離れ新鮮な生命の糧を求めて山に登るのはまた楽しい事だ。自己本来に帰って見たい欲望、それは山に登るの情そのものではなかろうか!人に対する自然は力に充ち美に溢れている。我々は自然の中にある情調を抱きつつ此の中に溶け込んでゆく、自然は崇高にして清浄なものである。此に接し、我々は昂揚深化せしめられる様(サマ)を感じ、ここに自然と人とはある不思議な人格的な関係を結ぶだろう。そして多くの倫理的なものを含んでいるだろう。しかし君よ!斯く養われゆく得難き体験が山を下り、再び現実の場に於て如何ように再現し再現しうべきかとなると我々は一応問題を此処に停めねばならないのだ。君はそうしたとき自然に於ける体験と現実的な生活とを何等かの形で結び付けようと思うだろう。また僕もそう思うのだ、、、、しかし早急であってはならぬ。僕は僕の考えと部の考えと、どの位の距離があるか、また各部員がどの様なことを考えているのかを探知しなければ僕一個の独断を前面に押し出すわけにはゆかないのだ。

そして更に大切な事はだ、登山も云うまでもなく一つのスポーツであり、前述したような登山旅行の精神的な一面のみを強調することは事態を無視し遊離した言説となる危険性があると思ったからだ。スポーツ生活には必ず日常生活との二重生活をなしている。「或る山好きの青年は山に入ると実に勇敢であり如何なる難場をも尻込みせず、ばりばり山を歩き廻る。然るにその日常生活は極めて怠惰である。一寸した行動にも物ぐさがる彼は山に入ったときのみ蘇生する。登山すれば忍耐性、実践性が養われると云う登山に関しては如何にも意志的実践的にはなるけれども他の生活層にまで波及するか否かは疑問である。」という事が多くありうるからだ。登山愛好者も各人各様でそれぞれの考えを以って、それぞれの登り方をするだろう。だから旅は個性的であると云われるものも此の事のためであろう。しかし互いに共通するものがあるとすれば、それは登山家にとって愛するものは人と自然との完全な融合の境地であり、それは岩角多き山道を辿り、また遠くはるかなる連峰を仰ぎつつ、尾根に従って進む、これは緊張と興奮と快楽とに充ちたスポーツ的感情であり、しかし我々は記録をつくり、対象を征服せんとのみ留まるものではない。我々の心の中には自然の偉大な威力に引かれ、常に永久的なもの、何か高いものを求めて前進せんとする。そこには人間的な要求に溢れている。静かな穏やかな落着いた気分であり、美的感情に導かれている。登山愛好の二面性からそれは自己の力の発揚であると共に観照的である。(能動的であると共に受動的である)と云う一見矛盾せるが如く見えるが、主観的なるもの、(即ちスポーツ的なるもの)と客観的なるもの(即ち美的観照的なもの)の合一感や調和感等が我々の愛好する登山の特色なのだろう。美的体験が自由な開放的な軽快さをもった清浄なすっきりとしたものであり、それはスポーツの特色と共に明朗であると云う点に於いて共通点を持っている。(勿論我々の心に訴えるものの中にも厳然たるもの、重圧感等は美を越えて宗教的な、倫理的なものとしての感慨としてとら把えうるが、そこまで問題を拡げずとも、、、)それは全心的にも、全身的にも、また心身との均衡化された軽快さであると思う。今日もまた自己の最大を尽しうるよう励み、そして此のケチクサイ自己を大自然の前に追い遣り、真に知らしむるがいい、悠久的なものに?接せしめるがいい。それは真摯だ。そして自己最大の発揚に努め、汗した後は爽な気分に保たれ、実に愉快ではないか。また汗して今我々は自然の探勝に接しその創造の深遠に触れんとした。そうした自然の前に自己を立たしめ、すべてのワク内から脱出し自由なそして開放された感受者として自由な、明るく、朗らかだ、、、、、、と。そして此の事が如何なる事態によって妨げられる様な事があるとすれば我々の修練に待つ外はあるまい。シラーは「生活は真摯にして芸術は快活なり」と、そして僕らは厳格であると共に明朗快活でありたい。部員の最年少者のT君が「苦あれば楽あり」など云って、よく頑張っていた。その表現が、たとえ幼げなものであろうと外の者に負けん気になって努めた。彼は限りなく愛すべき存在であると思った。僕などは年甲斐もなく実質的意味に於て全く年少者で自己向上に努力せねば、、、と云うと意志薄弱な僕を知っている君は笑うかも知れぬ。しかし時には鞭撻激励してもよさそうなものだ、、、。生活と自然について、また自然愛好としての、スポーツとしての登山の特殊性について僕の考えを整えようとした、君の批判を待つ。

ランタンの灯が天幕の内をほのかに照し皆静かに山の床についた。シートの影の草露が我々の夢をうるおうだろう。第二信「我れ山頂に銘ず」(H君!僕の山岳日記の一片を君に送る)明れば十一日九時テント撤収、いよいよ金峯山頂を目指して登山出発。踏み出す足にもきわめて注意し岩場を鎖に伝って歩を進めた。此を登り切ると500米前方に鶏頭岩が「ぐぅん」と谷間に向って突き出ているのを見る。尾根を伝って此の裏に出る。天候晴れやらず雲霧飛び散り我が周辺を去来す。道は樹下、露にしとしとする処を二、三過ぎればいよいよ岩角多き道となり、我が足下に幾千丈の断崖を築き緑葉樹木にて纏えども、なお足らず銀灰色の岩肌は風雲に打たれ長き辛酸のあとを深く刻み落つる処谷間に深く雲霧を以って閉ざせば岩頭高く点を突くの御山の秀峯は、さながら天上の孤島と呼ぶに等しく、道は更に林間岩下を迂回し、急斜の岩角多き道を進めば視界開けて火山灰質の土崩に至す。この頃より既に先発隊と後続隊との距離二粁(キロメートル)に達し、「イヤホー」と呼びかける声が霧を突いて下の方より伝って来る。追続して来た「樽谷君」を加え先発五名となる。今我ら自然を通じ超主観的なものに接し自我と大自然との合一感を体得せしめられる。岩また岩、次ぎ次ぎとよぢ登って行った。道がまた一回すれば御山は一望のもとに全裸にて、我が視界間近に頂上御像岩を拝す。我らは勇み、全力の発揚に注入し、踏みしめ緊張と興奮とを以て大自然の前に此の小さな自己の全存在を投出し其の威力と親和抱合せんとした。そして自己の自然への対決は尊く厳粛な感情に導かれてゆく。前半相当ピッチをあげた僕は今にして道を急ぐことはなかった。此のときをして充分自然に楽しまんとして足弛めば、足立、覚野、長谷辺君たち先頭三名の影は忽ち飛び来る雲霧の中に消えてゆく。畳あげた岩頭を越え粉石砂地の道をケルンを辿りて進めば風雲にされされ赤裸々な姿を暴露せる御山は荒涼寂寞なる様にて、とみる間にそれはまた厳然と聳えて他を寄らしめず、その威厳悠々としてこの世の経歴を一喝の下に併呑せる如く、その沈黙の中に不変の生命に充ち、限りなき神秘をもって来る者を圧しめるさまにて!先に三名と五百米下から来る十名と一粁離れ、僕はすぐ後を続いて来るT君と共に今は天と地との間にありて一点の岩角に立たずむとき、ただ飄然たるものであった。眼を上ぐれば御像岩が天空を突き雲霧飛び散り、下を眺ずるに果しなき雲海四囲を閉ざし、白一色の世界となりて、無限の静寂を呼ぶ。何と云ってよいのかー。T君が「あーミルクの様だ」と云った。彼らしい事を云う。今はただ自然の一部であり自然本来に帰った僕らは、柵(トリデ)のすべてを去った心の中は、お互の感慨を素直に受け入れることの出来るように思われた。一歩二歩三歩遂に我々は頂上に達した。展望は全く利かなかった。運動を停止した体は急に寒気におそわれた。全身露ですっかり濡れていた。
先着十一時四名、八分遅れて僕とTが、三十分後に全員到達した。我々は所定時間内に目的地に完遂したのだ。それから五十分後はまた我々は濃霧と小雨の中を切り立った岩角に気を配りつつ下山していた。僕は頂上間近でケルンをあやまった。目的地は目前であったので迷うことはなかったが、あれだけは山を登行する者として長く恥ずべきことであり、戒しむべきであると思った。自然にも理がある。山を下る其処には社会の法がある。自然も生き社会も活きている。僕らの現実の生活が新しき課題をかかげて僕の新しき出発を待っている。僕は山を下りてゆく人である。しかしまた僕は山を上がってゆく者である。そうした僕でありながら自然への憧憬は止む難いからだ。 以上
 

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8. 岳人入門第一章

 
長谷部 光郎

「岳人」と云うのは決して人の号でもなければ山窩(さんか)の別名でもない。近代アルピニズムをその拠り所として山に登り、岩にぶら下がる人々の自称であり尊称である。古代アルピニズムについては筆者は寡聞にして知らぬ。故に先ず近代アルピニズムから説明せずばなるまい。それは山をスポーツの対象として、即ちレコードにその目的をおいてする登山の仕方である。ここでは問題は如何に困難なルートを如何に困難なシーズンに登るかと云う人間力の拡張、或はその限界のみに限られる。
しかし、アルピニズムを信奉して厳冬期全裸で早大図書館の外壁を登ったとしても、それはアルピニズムとは云われない。この社会にも他の社会と同様多くの約束と慣習があり、思う所に従って則(ノリ)を越えなくなる迄は常にそれを意識しなくてはならない。拙稿はその解説と応用を示さんとするに他ならない。
先ず岳人たるものは平生から心を山に置かなくてはならぬ。日常の話題全て山を選ぶべし。而して日本アルプス、アルプス及びヒマラヤ以外は語る必要はない。登高技術、バリエーションルート、山に関するエピソード等必ず日常から蓄えて置き、人前にてはぽそりぽそりと話すのがこつである。参考文献は日本のものは高須、冠、春日の諸氏、外国のものはウィンパー、モルゲンターレルの両氏のものが良い。「里」にいる時も出来る限り山の慣用語を用いる事が必要である。それは他社会に於ける彼の能力が低い程彼のリーダーとしての尊敬を大きくする。
用語の説明は後に廻して、実際に我々が山に行く時を想定して説明しよう。冬以外のシーズンに例をとる。服装はバドミントンスタイルが一般的。ナーゲルスーツ、ストッキング、紺ニッカ、紺か黒のカッターシャツに同色系のチョッキ、これで頭の上にチロリヤンハットがのっていれば上等である。がしかしすきのないユニホームはビギナーに多い。そこで我々は一寸変化を付けよう。ズボンはスキ-ズボン-必ずつぎが当たっている事。これはズボンに限らない。全て新しいものは新米のシンボルとして避けられるべきであろう。頭は手拭かヘヤーバンド。勿論これらは実用から来ているのであって、約束が先に出来たものではない。だが絶対に困るのは半袖、半パンツ、ピケ帽である。アルピニズムの対象となる様な登山ではこれらは勿論不適であるが、それよりも先ずこれらは岳人自己否認の標(しるし)となるからである。ザックはキスリング型がOK、ピッケルは尺物、シャフトが短い時は冬山のベテランをも表わすが夏は長い方が便利だからその辺はバランスを得る事が必要である。冬、輪っぱ、アイゼン等をザックの上に付けるのは中級であるが、夏、ザイル、ピン、ハンマー等をザックの外にぶらさげるのも同様である。以上はステーションスタイルと称し、乗物の終着地、或は第一日目のみの服装である。さて乗物を下りて歩きはじめるといろいろな登山者に遇う。これらは大体三つに分けられる。第一はステーションスタイルそのままのグループで、これは更に二つに分かれ、ベテランとビギナーとになる。ザックが小さく堅そうで腰を落して歩くのは前者、ザックが大きくがさがさしているのは後者であるからすぐ判る。第三のグループが一番多い。
足はワラジか地下足袋でシャツはブッシュ漕ぎか余程の岩場でもない限りザックに入れてアンダーシャツ、或は裸にチョッキである。これは土地の子に非ずんば二、三年から五、六年は歩いた中級者であるから若し諸君がベテランでなかったら挨拶すべきである。何れかが歩きながらだったら「御苦労さん」、「どちらへ」位が普通であろう。「今日は」はあまり用いない方が良い。若しかすると返事をして貰えないから。山小屋、特に無人小屋に二パーティ以上泊まった時は必ず後に着いた方が挨拶し、先にいた人々は一時火を譲って後のパーティをねぎらうべきである。これは勿論常識であるが、後のパーティが薪を集めなかったり、挨拶をしなかったりすると岳人点は四十点以下とされる。
小屋に着いたら学校山岳部以外は成るべく苗氏を用いない事。これは小屋で一種の幅を利かす因となる。「保(ヤツ)ちゃん」「次郎ちゃん」等と名前を愛称にするか、或は山に因んだあだ名を呼ぶのがいい。
五、六人以上のパーティで歩く時はトップはサブリーダーである。リーダーは必ず後から行く事になっている。一般によく知られている山の用語や作法についてここで詳しく述べる事は面倒だから止めにする。一般の入門書にない注意を二三書こう。一つの山行を計画したら必ずその附近のルート一般について「勉強しておく」事。幕営地や小屋で他パーティの人と話をする時大いに役に立つ。若し「あそこは可成り難しいですよ。」と云われたら「そうだそうですね。あれも大分ショッパイらしいですな。」と答うべきである。「らしい」や「そうですね」「も」等と云う言葉がこの対話のキイである。嘘はつかず、対手には「可成りやるな。」と云う感を与える。一寸顔を知っている岳人、ガイドは全て親類扱いで話さなくてはいけない。「五郎の好が来い来いって云いましてね。」「僕の所にも時々葉書をよこしますよ。」「あいつは気易いですからね。悪く思わんで下さい。」これは先手が勝ちである。
若し話す対手の英、仏、独、古代日本の諸語に解らないのがあったらそのまま用うべし。」「あのピークとこっちのマイナーとの間のザッテルに出るために、クレバアスやシュルンドを越えてあのフェイスにリーチするんです。出合から第一のセン迄はいいコースであとあの辺り迄はセンとガレですがショッパイ所はありません、途中にムロがあるから天気のシブリ時はオカンも出来ます。」ビギナーの諸君にはこの中解らない単語が二、三あるだろう。気にする事はない、知らん顔して使っていれば自然に解って来るものだ。
斯くいろいろのケースを取って説明を重ねて来れば、岳人になると云う事が如何に苦労多きものであるか、それ故に又岳人と云うものは如何に尊い人々であるか解する事ができるであろう。世にスポーツマンは多いが岳人達程真剣で人間性に富むものはいない。それは斯る不断の訓練の結果であるのだ。我々は山を岳人の手で護り、岳人の山にしなくてはならぬ。先日斯界の中堅U氏が語ったと伝えられる所は誠に宜き言である。即ち「日本の山々は余りにも俗化した。登山家でない者が山に登る。私は数年間山を荒れるにまかせる事を提唱する。小屋も、道も、室も、川も手入れはしない。斯して原始の山に戻ったらこれに登り得る我々登山家のみで山を育てよう。」と。ビギナーの諸君も彼の言に恐れる必要はない。若し自信が無かったら何処かのクラブに入るべし。必ず易しい登山道を口伝してくれるであろう。
私は更にU氏及び他の二、三の人々が日本をアルピニズムの本場(?!)として発展させるプランを持っていると聞いている。即ち靴ですりへった岩にはハッパをかけ、大きすぎるバンドはけずり取り、新鮮なスポーツに相応しい合理的なルートを幾つか創る事である。」若しこのプランが実現すれば将来に於ける登山家の段位制、或は名人位も可能となるわけであり、我々は大いに期待すべきであろう。
以下第二章装備、第三章ハッタリ、第四章技術、第五章経済と続ける筈の所、筆者閑を得ず、一度ここで筆をおく事とする。
 

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9. 霧の日に寄せて

 
栗原三郎

一、可愛いいお客

コトコトコト、コトコトコト。「何だろうね。あの音は。」と益富君が小さい眼鏡の中の眼玉をくりくりさせて天井を見乍らつぶやく。「僕もさっきから気になってたんだ。」と私も天井を見たまま云う。左に矢張りねころんで之も天井を見たままの正民さんが、「裏の方、勝手の裏あたりらしいな。まさか人が尋ねて来たんじゃないだろうね。」と云う。霧の日の退屈に、朝から三人共八畳の間にねころがって、無駄話に時を過し、退屈しのぎの、念の入った昼食も山の上では知れたもので、食べてしまうと、又やる事もなく、満腹の腹を上に向けて三人共又とりとめもない話をして川の字にねころがって、それもそろそろあきて何となく眠気を誘われて来はじめた頃である。話がとぎれると、家を取まく叢や落葉松の林の霧のしずくのひそひそ話が開け放した縁先から淡いミルクのような霧と一緒に忍びこんで来るばかり。そこへ突然、いやに規則的な、何とも云えぬ含みを持った音が、しかもそれが可成り近くで裏の方から聞こえて来るのである。
コトコトコトと云うのだから何か衝撃の音だが、つまり何かで何かを打てばあんな音が出るわけだが、その打つものが何か、打たれるものが何かがとんと見当のつかぬような、デリケートな、しかも可成りはっきりした、その上規則的な音なのだ。さあ、三人共判らなくなった。あれこれ協議して眠気も醒めた。「打つ音じゃないかもしれないよ。よく水道のカランがコトコトって鳴る事があるだろう?」「そう、そう云えばあれにも似てるね。」「だけどあれは水を出す時にする音だよ。三人共ここにいて誰が水を出しているんだい?」二人は「うーむ」と唸る。同じ軽井沢町の別荘地でも、旧軽井沢と違い、千ヶ滝の方は、中産階級が殆んどで、周囲も出来るだけ自然を損わず、家も必要の最低限に止めて簡素であるが、水道は設備してある。火山灰地で井戸の掘れぬせいもあるだろう。三人が考え込んだ途端に又今度は少し長く十刻位も続けてきこえた。私達は全神経を集中してその音の正体を捉えようとした。遠方で軽機のこだまする音などと云う形容をすると、趣も減ずるが、その音に可成り近い。それをごく近くで聞く感じである。とうとう三人共手を挙げた。どうしても判らないと云う。で、私が確かめに行く事にして立上がった。
初めは心なしか遠慮勝ちであったが、何か調子に乗った感じで、しきりにコトコトと続けている。勝手の流しの上の窓からのぞいて見ようと思ったが、窓下の棚には男世帯の常で、使用したまま、すぐには洗わない食器が山積みしているので、手洗いの高窓の下へ行き、窓べりに両手をかけると爪先立ちなってそっと首だけ出して外を見た。いつもは正面の二本立った落葉松の間に秀麗な浅間がたいてい右の方へうっすらと白煙をなびかせているのだが今日は十間も離れていない落葉松も、その高い梢のあたりは霧にぼやけてさだかには見えない位だ。今音はしていない。さては感付いたかなと、注意深く眼だけ動かして視野を見廻すが、さて何もそれらしきものは見当らない。たしかにこのあたりで音がしてたんだがと、まざまざと耳に残るその音を頭の中で反芻していると、当のその音がびっくりする程耳元で、すぐ傍で生じた。私はとび上る程驚いて、それでもそっと首を廻して横を見た。家の裏壁は樹皮をはがない落葉松の製材板がそのまま使用してある。土地会社では安く上げる為に使用したのであろうが仲々自然をめぐらした建物の壁としては野趣があり雅致がある。問題の曲者はその落葉松の丸木の壁に留まっている。鳥である。啄木の奴だった。私は実物のきつつきをまだ見た事はなかったが、きつつきが他の鳥と違って、丸い木の枝を握るようにしては留らず、絶壁に爪を引掛けた具合に樹の幹に縦にとまると云う性質は知っていた。そしてその長く堅固な嘴で樹幹に穴を穿って虫を食う事、たが山里で風に唸る電柱を中に虫がいると感違いして穴をあけるそうで、害鳥だ。いや、木々の害虫を食うから益鳥だ、と中学時代友人と云い合った事もあった。
さて、今眼前にいるのは、灰色に黒の縞で小型だが、スタイルは隼に似て仲々精悍だ。きつつきは学名はケラだが、之は普通よく絵に見るアカゲラやアオゲラではなく一番小さいコゲラという奴らしい。しきりにつついている。その様子を見てると、いかにも激しくて、きかん坊みたいだ。あれじゃ首も木をつかんでいる足の握力も相当に強くないと、あの固い木に穴をあける打撃の反動には耐え切れまいと、感心して見ていると、ふいとつつくのをやめた。何かに気付いた気配だ。おやっと私が思うか思わぬうちに奴もひょいと首だけこっちを見た。その眼の生意気な事!おのれが人様の家を断りもなくつついているくせに、「何を見やがる」とでも云いたげに眼を三角にしてにらんでいる。而も三秒、、、五秒、、、。私はおかしくなって、思わずくすりと笑った。と、何を感違いしたのか奴さん大慌てに慌ててバタバタとうるしにやまいもの蔓のからんだ茂みの中にとび込んで、あとはかさりとも云わせず、身をかくしてしまった。私はその滑稽なあわてぶりに思わず、大声で笑い出してしまった。あとにはまたひそやかな霧のしづくの音がつづいた。霧の日の思いがけぬ、そして可愛い客であった。
 
二、霧の日五首(沓掛千ヶ滝にて)

郭公眠るとももの想ふともなき霧の日は
からまつ林に郭公の声
話尽き友の寝息や遠き森に
郭公の声す霧の日の午後
たたみひんやりと背にこころよし霧の日は
たたみの味をしみじみとおもふ
きつつきほら、ね、又、いつものお客がノックする あれはね、きつつきだよ勝手口の戸
霧の日のつれづれに来しきつつきは ノックのみして帰り行きけり

三、ひねもす

眼がさめると濃いミルクの様な霧。頭をもたげて、見えるのは窓枠だけ。
まだねむい。濃く淡く一面に霧が流れる庭のから松の梢で郭公が鳴いた。もう午近い。
冷えた畳に坐って温い紅茶が身に沁む。
ほとほとと啄木の訪ひ。静かな午後動かなくなった霧がバラ色に変った。二つ三つほととぎすも鳴いて、
もう日が暮れる。
ひねもす浅間は見えず霧は闇に沈んだ。聞えるのはしづくの音だけ
夜もふけた。
 

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10. 或るワンデルングにて

 
たちはやを

沢について下り出してから二十分もたっただろうか。それはほんの小さな沢だった。山ひだにつつまれて夏を待っていた雪渓は淡彩の花達と共に眠りから目覚め、何ヶ月ぶりかの活動を今始めた様に思われた。急流の岩々に飛沫を散らせながら落ちて行く水は小さな子供達の様に自分の上機嫌を示そうととび廻りたい気持で一杯なのではないだろうか。岸の片側を幾度か岩伝いになりながら、かすかな踏み跡が急坂をなして僕等を導いて下る。雪の溶けたあとには長い間その重みですっかりなでつけられてしまった枯草が土を被っていて、ともすれば足を奪われ勝ちである。やがて沢を外れ右手の尾根を横切ると不意に眼の前が開け今いるこの鞍部に出たのだった。
そこは下って来るにつれてぽつぽつ見え始めたから松に幾分光線を奪われていた沢とは違って広々とした明るい草地だった。その草原の中を雨が降れば水が流れると思われる径が黒土の中に所々岩肌を見せて深く切れ込んで走り、やがてなだらかな草山を気持よさそうにうねりながら登って消えていた。
身体を投げ出す様にして腰を下ろし、しめつけられていた肩からザックをはずす。ほっと一息つくとあたりの静けさと同時に今日越えて来た岩山から受けたのとは異った、なごやかな、どことなく暖かさを伴った空気が僕等を包みかかって来るのが感じられた。昼頃からガスが山々の頂を覆い始めはしたが、雲の薄い所から折々太陽がほんのりもれて来て附近の色彩を濃い緑から一瞬解放してぱあっと明るくしてくれる。此処にこうしているとさっき迄岩でたたみ上げた山頂に霧に囲まれてふるえていた事がまるで嘘の様に思われ、遠い鋭い山影に眼の移る迄は手軽に出かけられる高原にでも寝ころんでいる感じである。
しばらくすると遅れた連中がやって来た。はげかかった赤黒い六つの顔が互に意味のない微笑を浮べてにやりとする。多分まわりの人が見たら薄気味悪がる様な顔に違いない。皆が腰を下ろすと残り少なになって来た飴玉の缶が順々にささくれ立った手を渡って行く。
一しきり軽口が飛ぶと後は皆黙ってしまう。まるで声をあたりに満ち満ちている山の精気に吸い取られてしまったかの様に。だが考えて見れば僕らは一体何を言い合う必要があるだろう。僕等は今この瞬間に於いて皆全く同じものを感じているのだから、、、。

風は草の香を一杯に含んで動く事を忘れて沈んでいる。僕等の腰を下ろしに身体を取まいている植物達は今やっと自らの生を発見したかの様に思い思いに芽ばえ蕾み花開こうとしているのだが僕には太古の昔からこのまま花を開きかけていたのではないかと怪しまれる。幾千尺とも知られぬ深みを流れると云う日本有数の峡谷をへだてて遥か彼方に立列ぶ連峰の頭をわずかに隠した高雲さえも、今僕等の下ったピークが東南に長く差しのべる尾根を越えて「動いちゃいけない、じっと」と呼びかけているのかさっきから微動だにしない。尾根について谷の方へと落ち込んでいる針葉樹の緑も木々の中にひそむ妖気を暗示しているとしか考えられない。此のあたりは幾十年も昔から四季の別こそあれずっとこんな様子を示し続けて来たのであろう。そしてこれから後も長い間このままであるに違いない。僕等も休んでいる間に何時か時の流れを感じなくなり、根が生え、枝が生じてこのまま動けなくなるのではないだろうか、と童話的空想さえ生れて来る。冷たい戦争は解決するだろうか。そして又二つの世界は?あの恐ろしい武器はどうなるだろう。これらの言葉は今の我々に何の意味をも?しはしない。だがさっき離れて来た沢音があわ立つ勢をわずかに伝え、小鳥の声が時折それに加わる気配、そしてこの雰囲気を大きく支配している永遠の相貌--キンポウゲがつぼみから可愛らしい黄色を一寸のぞかせ僕等に歓迎の辞を表している。これらこそ六人の人間の何物にも替え難く感じているそれなのだ。「神は存在する」と誰が断言できるだろう。又「神は存在しない」と。だが僕は今我々を包んでいるこの小さな世界につけるそれ以上の名前を知らないのである。僕等が東京を発ってからゆう一週間程の時間が経っていた。そのくせ僕等には指を折って数えない限りそんな日数が経ってしまったとは決して思えないのである。僕等は今日迄高原に沢にと仮寝の夢を結びながら、まさしく歩一歩前の者の足跡を踏みしめ踏みしめ歩んで来た。
雪と雲とで化粧した多くの山々が遠くに浮び出でては次第次第に近づき僕等の下を過ぎ、やがて後に他の嶺々の間に没して行った。多くの珍しい花があった。蜜蜂がぶんぶんうなり声を上げてとんでいた。それらにも増して清浄な大気と胸のすく様な壮大な風光が相継いで展開して行った。僕は殆んど夢心地であった。山々や花や木やその他僕等を囲んでいる全てのものがかくあると何時予想し得たであろう。荷物は殆んど十貫に達していた。その事はちょっとした勾配にも息ははずみ、どうにも足が動かなくなる事を意味し、肩はそのためしめつけられ、手には血が通わず、しびれむくんで来る事を意味する。幕営地での作業も決して楽なものではなかった。夕方そこに着くのが六時、薪を集め炊事をし、テントを張って、さて食事と云えば八時か九時になった。一度すいた腹も何時しか空腹感以上のものを訴えていた。これらは正に苦しみの連続とも表現できるだろう。
それにも拘らず思い出が今、頁から頁へと移る時、何故にそれそれらはそれ程迄美しく彩られているのであろう。美しさのみが頁を飾っているからではない。それに隣して堪える事の出来た数多くの苦痛がまざまざと記されているが故に一層美しさが強調せられてあるのだ。又思い出の一つ一つが単に現世からの逃避を意味するのではなくしてあるべき自らの魂へのあこがれの跡であるからなのだ。誰が一体我々の労苦の深奥にひそむこの思い出のノートを正しく想像する事が出来るだろう。今僕等を取囲んでいる草も木も音も匂いも、やがて心の一隅に忘れられる事のない生きた絵として何時迄も存在する事となろう。

誰かが「さあ、もう出掛けよう」と云った。そう知らぬ間に大分時間が経っていた。僕等は重い腰を上げ、未練を跡に残して足を運び始める。
渓谷よ、とこしえに流れてあれ。花達よ来る夏も美しくこの草地を飾るがよい。僕等は生活に倦み疲れた折その根底に於て、その道程に於て僕等を勇気づけ慰めてくれるものとしてお前達を、そして又この山旅を思い起す事であろう。
潅木を交えた草山がゆっくりと、だが次第次第に僕等より低くなって行く。
今歩き始めたばかりなのにもう息が切れ始める。ザックも段々と肩に腰にのしかかって来る様だ。あの草原も何時しか潅木のかげへと見えなくなって行った。しかしあれにもました数々の環境が、山が、高原が、僕等を待っている事であろう。
---今日の幕営地も、もう遠くはないらしい。
 

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11. 雨の谷川岳

 
柳 和夫

「谷川岳」というのはトコ耳、薬師岳のことで今日谷川岳と云えば上越国境を思い出し、上越と云えば谷川岳を連想する。谷川岳、世界にその有名さを轟かした谷川岳。我々東都住人にとって、上越の山として最も取付き易い点であろう。第二には素晴しい展望に恵まれているためであろう。第三にはロッククライミングの練習場として又初夏の頃迄雪があることと遭難事件が打続く結果であろう。この山は地勢の関係上非常に気候の激変し易い山でいくら天気のよいときでもいつなんどき深い霧に見舞われるか、いつなんどきひどい猛雨にたたかれるか分からないのである。
今春の合宿以来再び谷川岳を訪れて見た。連日降っている雨はまだやまない。東京を午後の汽車で土合に向う。車中天候を気にしながら、列車は上越国境へと走って行く。山百合号が早くも土合のホームへ滑り込んだ。この駅で下車したのは我々だけだ。車窓の人々に見送られホーム伝いから線路伝いと近道をする。やがて列車が走り出し、清水トンネルへ吸い込まれた時、始めて我々は利根川の水の音を耳にした。山の家へ直ぐ行き旅装をとった。先着者の話によれば昨日マチガの出合にテントを設営したが、ドシャブリの一晩中眠れずそして大部ぬれ、その為今朝撤収したが、マチガ沢、西黒沢はかなり増水し、殊に西黒沢は増水し横断出来ず旧道より沢にそって下り丸太を渡しやっと山の家へたどりついた事であった。今日も暮れて行く、雨は降っている。明日の快晴を祈り早く就寝す。

夜が明けた。雨は依然として降っている。だが昨日程ひどくない。早く朝食を済ませた。間もなく汽車の音がした。上野発夜行列車であろう。二十人位降りた。僕等二人はパッキングをしコースを変更して兎に角きたのだからトコノ耳迄行く事にした。山の家を出発し、遭難碑に一礼し清水峠への道と別れ旧道へと行く。西黒沢の出合に差しかかった。昨日の話ほどではなかったがかなり増水し、やっと渡った。今日の登路は西黒尾根へたどりつき、深林をぬいながら登って行く。雨は尚更強く降っている。不安をいだきながら一応ラクダの背まで行く事にした。途中二人の女、こども連れの登山者に出会い歩かなくては冷えてしまうので一応僕等が連れて行く事にした。間もなくラクダの背に着いた。雨はすっかり小降りになったが、谷川特有のガスと西黒沢と天神尾根の方から冷風が強く吹きつける。ここで頂上肩の小屋へ行く事に決めウィンドヤッケを着て出発す。女、子供連れの三人も頂上迄行くとの事で肩の小屋迄我々が案内する事に決めた。視界全然きかず快晴ならば笠ヶ岳、朝日岳、眼前にマチガ沢が見えるのであるが全く残念である。春の合宿も天候に恵まれず、今年は谷川岳では全く不運である。ラクダの背の様な岩尾根を行くうちに又二人の登山者が道に迷っているのを発見し、肩の小屋迄連れて行く事にした。ザンゲ岩の肋で風をよけ煙草を一服する。小休止後一息でトコノ耳に立つ、すぐ肩の小屋へ引き返す。途中三人の下山者に合ったが肩の小屋が不明だと云い降りて行った。新築の小屋はまだ出来上がったばかりと見え誰も人は居らず、もとの小屋に番人が居たので中へ入った。我々を暖かく迎えてくれた。早く火をたき一応元気を取戻し、昼食する。味噌汁を御馳走になりすっかり身体は快復した。女、子供は雨具がなかったためか、かなり疲労していた。すぐこたつに入れさしてもらい休ませた。小屋ですっかりお世話になり、遅くならに内に出発す。連れの人々を後に残して行くのも不安になり、一緒に途中迄連れて行く事にした。
小屋を一歩出れば、相変らず風が強く吹いている。雨は差程ひどくない。下山路は風が強い為にガレ沢より西黒沢を下り土合へ出る事にし、一気に下って西黒尾に出合いここでゆっくりと休む。ここで連れの人々を後に先へ下山するつもりでいたが、始めての登山者で男の二人は谷川連岸を縦走する予定で居たらしく、尚更不安になり山の家迄連れて行く事にした。水は殆ど減水し、亦いくらか晴れて来た。谷川岳の上空は実に狭い。ガスは依然としてかかっている。風は全然当らず尾根よりも非常に暖かい。ここらは右の西黒尾根から天神峠迄眺められる急峻な源頭が指呼の間にある。踏跡やケルンに導かれ石伝いに下って行く。小流の連続である。天気が良ければ水はとても美しい。左岸の踏跡を行くうちにやがて右岸が移り、下って行くと、五段の滝が左岸に巨大な岩床となって現れた。美しい女性的な感じの滝である。やがて天神峠から達する道と合致し、更に右岸沿いに下ると白鷺の滝が左へ十五米位程の美しいスラゴの滝が落ちている。二十分も下ると旧道と出合い、ここでよごれを落し、山の家へぶらぶらと行く東京の方の空は晴れている。虹が出た。だが谷川岳は依然として雲につつまれている。今日は谷川岳を再認識した。(1950年8月5日 記)
 

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12. 一新人の手記

 
覚野 久雄

私がまだ高校時代に非常に山好きな生物の先生に連れられて始めて白馬岳に登った時その先生の教え子でやはり数人の生徒を連れて来ている人に出合ったがその人は「私は中学四年の時に君達の先生に連れられて山に行ったのが病みつきになって今もこうして毎年山を歩いているのです」と云っていた。私もよく考えて見るとこういうコースをたどっているのではないかと思われるのである。始めて登ったアルプスに魅せられた我々は帰って直ちにその先生を中心として登山部を新設し附近の低い山々を片端から登り始めた。この頃より私はだんだんと山というものに近づいていった。しかし当時はまだ山それ自身の偉大さを認識し山を楽しむというよりはむしろ友達とワイワイ云いながら登ったりキャンプをしたりすることに興味を感じていた方が大であったかも知れない。
修学旅行気分のようにこういう状態で高校を卒業して大学に入学したわけだが入学当時は山岳部へ入ろうかとも考えてみたこともあった。しかし自分の体力とかその他の事情を考えてやはり入部の決心はつかなかったのである。こうしているうちたまたまワンダーフォーゲル部のポスターを見た私は丁度何か一つの部に属さなければならないと思っていたところだったから「これならばいいだろう。これなら山岳部のようにはしごかれないだろう」といった漠然とした考えで以って入部したわけである。ところが第一回の夏合宿に参加した私は最初の考えを変えざるを得なかった。歌の文句じゃないがハイキングと思ったに重い荷物を背負わされて私には思ったより辛かった。私の疲れを倍化させるガレ場を登りながら「どうしてこんな重い荷物を背負って山に登るのだろう」「自分には体力がないからだろう」「新人というのはこれ位しぼられるのが当然なんだろうか」といろいろ頭の中に並べてみた。そして結局のところ入学して間もない白紙の状態の私は「こんなものだろう」と無条件に受け入れた。この頃から山に対する私の態度は一変したようだ。山から下って来てみるとつらかった事も面白かったことも全てが楽しい思い出となりまた無精に山に行きたくなってくる。こういう方向に行ったのも一番最初の夏合宿の鋭い印象によってであろうと思われる。私は段々早稲田の山男になりそうだ。
 

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13. 北アルプスの初印象

 
田中 昭男

初めて見た上高地は、人に聞いたり想像したりして居たそれよりも遥かに美しかった。釜トンネルを出ると間もなく、バスの窓から眺められる風景は一変し、それ迄の身にさし迫る様な峡谷美から、心身を解放する様なアルペン的雰囲気を我々の前にくり広げ、立ち通しのバスの疲れを忘れさせて呉れた。やがて頭を出した焼岳のその名通りの焼けただれた山容を見上げて居ると、不意に車内に嘆声が起った。視線をたどれば、急にその巾を増した梓川の中に枯木が数本、と見る間にそこに現れたのは今更云う迄もないあの大正池と、それに白い雪渓の影を写す穂高山群の絵姿だった。その風景は今更平凡な形容をつけ加えるにはおかしい位にポピュラーなものになってしまったが、しかし初めて見る僕にとってはその平凡な形容を重ねるより仕方がない程、全く絵よりも美しい自然の風景だった。やがて河童橋の河畔に下り立った僕と父は、宿に荷物を置き、白樺の林の中の小径を大正池に写真をとりに向った。鴬の声を聞きつつ進み、やがてバス道路に出ると、上って来た皇太子殿下の自動車群とすれ違った。池畔で天然色写真をとった我々は山の夕陽を浴びつつ宿に戻り、梓川のせせらぎを聞きつつ寝に就いた。
翌朝宿を出ていよいよ槍ヶ岳に向ったのは八時半を過ぎた頃だった。河童橋を渡り、天幕の花咲き乱れる小梨平を抜けると、後は樹林の中の道を上り下りする比較的単調なコースが長く続いた。梓川の対岸に時折望まれる明神岳の深い森林や前穂の岩肌が何か闘志を湧き立たせる様だった。空は薄曇だったが、歩いて居ると汗が流れる。すれ違いに挨拶を交しつつ下って行く人々が沢山通る。重そうな荷を背負い、一列になってすれ違って行った山岳部らしい早稲田の学生達も見受けた。一ノ俟の小屋で昼食を済ませ槍沢の上りにかかった頃から雲が厚さを増し、槍沢ヒュッテに着いた頃には雨がぽつぽつとやって来た。だが初めて踏む雪渓の快感に天候の悪さもさして気にならない。麓から眺めた雪渓を見て想像して居た雪の厚さとは比較にならぬ程に厚い雪の量には驚かされた。なかなか尽きそうにもない長い雪渓をたどって行くと、雨は非常に激しくなり、油紙のカッパを通し、更に衣服迄通して雨が浸透し、気温も下って悪いコンディションになった。ガスも見るみる中に立ちこめて、時々行会う登山者達も大分予定を狂わされたらしい。我々も荷物を濡らしたり、コンディションを乱されたので、五十過ぎた父の疲労を考え、明日の穂高縦走予定を中止し、上高地に下る事にして、すしづめの小屋で眠る。明る日の朝まだき鎖にすがって槍頂上に登る。今日は又昨日とはうって変った快晴に、頂上の展望は正に日本一。土地の者らしい若者の指示する山の名は日本の代表的な山の殆んど全部と云う素晴らしさ。六、七年前の戦争中にやはり父と登り、その山麓に何度か夏を送った八ヶ岳の懐かしい姿も鮮やかに浮んで居た。名残りを惜しみつつ頂上を下り、又殺生小屋に戻って朝食后、ゆっくりと写真等をとりながら上高地に向って昨日来た槍沢を下る。日は鮮やかに輝き、岩の蔭に高山植物が咲き揃い、アルプスの夏を満喫する。昨日を裏とすれば、今日は表。アルプスの表裏を一ぺんに味わった訳だ。来年こそは穂高へと誓いながら、雪渓を滑ったり、渓流に手をひたしたりしながら、湯槽の待って居る上高地の宿に向って、父と楽しく歩みを進めた。期待よりも遥かに美しく楽しかったアルプスの初印象を心に秘めながら。(終)
 

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14. 山のたのしみ

 
安達 啓三

僕は山へ遊びに行く。勝手気ままにそこいらをぶらついて、気に入った所で休み、天気が良ければ景色に見とれ、雨が降ればテントの中にひっくりかえって無為をたのしみ興至ればでまかせの歌をドナリ、時に三文詩を作る。だからただ歩くのは余り好きではないし、重い荷物をかつぐのも苦手である。自然の中に入って自己流に自然を解釈し、行動し、楽しければそれで良いのだと思っている。何も固苦しい事を決めない方が良い。同行の友が星を見て泣こうと、うすいカレーの汁の中にネズミの糞ほどの肉片を発見して狂喜しようとそんな事は僕の知った事ではない。高い山でも良い。低い山でも良い。要するにどこでも良いのである。上野の山であろうと飛鳥山であろうと構わない。ただ上野の山では今のところ余りたのしくないから行かないだけである。
山を歩いていると時々我を忘れる事がある。意識を失うのではない。重いザックや流れる汗や、そして腹のへっている事などを忘れてしまうのだ。自然と相対しているのではなく、自然の一点景になり切ってしまうのだ。だから僕の前には僕がいない。だた林や小さい道や石ころがあるだけだ。枯葉や朽木や雑草や高山植物だけがそこにある。僕の肉体がそれを見ているのではない。僕自身が、僕の魂がそれを感じているのだ。氷雨にそぼ打たれ乍ら歩む林道に於て、夕もやのキャンプ地に於て、そして、バラ色に輝く雪の朝にそれを感ずる。ヴェルレェヌの詩そのものである。

それとは逆に、ギラギラする白熱の太陽に下に於ては自然の強大さに圧倒されながらも不思議に鋭く自己を意識させられる。一昨年の夏、涸沢にスキーに行った事がある。そのスキー行の一週間にわたるアルバイトのうちで最も印象に残っているのは初めて習ったグリセードのことではない。
午后の二時頃であった。昼飯をまだ食べていなかったので腹はペコペコであった。僕は奥穂から下りて来て穂高小屋の前で日陽ボッコをしていた。よく晴れた日だったが、飛田側からガスが勢いよく吹きあげて来た。笠ヶ岳の頂上に雪を残している雄姿がはっきり眺められた。同行の先輩二人は小屋の中で火を燃しつけている。僕はただ七月の太陽を浴びて、砂利の上にほうり出されているスリ切れたワラジをじっと見つめていただけだ。大きなギンバエがブンブン云い乍らあたりにとび交っていた。ただそれだけの事である。しかし僕はそこに白光の虚無を感じた。ひねくれた、ゴミみたいなニヒリズムではない。上ついたセンチメンタリズムではない。それは詩である。少しの仮借も許さず自己の歌を叫びつづけたランボオの詩ではないか。僕はハエの音をききながら感動して来た。今感動しているのは俺なのだ、と云うことを強く意識した。自然はもはや俺の下にあるのだ。俺の精神にとって、自然は単なる点景に過ぎないではないか。僕はこう考えたのではない。感じたのである。自然の環境が厳しくて、偉大であればある程、それだけ強烈に、自分の意識が、自然を征服するのである。これは僕の感性の問題であり、僕にとって山へ行く最大のたのしみは、この様な体験を得る事にある。しかしたのしみは勿論これにるきるものではない。むしろ山で起るすべての事がたのしい。ただマイナスの要因があり、プラスのたのしみをケンセイするから、差し引き余りたのしくなくなってしまうのである。マイナスの要因は色々とある。重い荷物や身体の故障、同行者の事故、用具の不備などがそれである。健康的な寒さは僕の最も愉快とするものであり、金峯の合宿での最後の日雨にふられてビショビショで幕営したのはなかなかたのしかった。雨は自然に変化をあたえて此の上なく有難い。
しかし何と云っても最も不愉快なのは歪められた人間関係であろう。だから凡そすべて山に行く者は友を選ぶ。折角たのしみに行くのに変な野郎と行くと全然ブチこわしで、費用をかけて、時間をつかって、くたびれて、そのあげく、カンカンになって帰ってくるなどと云うのは愚の骨頂であり、何しに山や野に行くのだか分らない。

我々はワンダラーであり、ワンダー・フォーゲルである。我々は自然の中にきびしい悟りの道を求めに行くのでもなければ、そこを自己の修道の場として行を積みに行くのでもない。遊びに行くのであり、楽しみに行くのであり、そして感じに行くのである。我々は自然のふところに入れば皆変りない弱く小さな一個の人間に過ぎないのだ。リーダーも新人もへちまもない。お互いは赤の他人ではないかも知れないが、しかし矢張り他人なのである。一人の人間の意志を他の人間におしつけるのは良くない。山は、自然は、時として人間を苦しめる。だから我々はお互いに組織をつくり、共同して事に当る。リーダーと云う職務が必要であり、色々の役目がなされなければならない所以であろう。或時はリーダーの命一下、それこそ死の危険をも冒さなければならず、又それだからこそ有能なリーダーが必要なのである。しかし、それは飽くまで組織上の、技術上の事であって、他の点では我々は組織の中で生活する。しかし役の上下が定められると云うような過ちをおかしてはいないだろうか。体力の強弱でその人間の価値を推し計ろうとする傾向がないだろうか。
僕はのびのびとした気持で山へ行きたい。自己のなすべき仕事をしてしまえば、そして自分の職務の上以外はすべて対等の、何の気兼もない俺お前の間柄でつき合って行きたい。上級生も下級生もない。リーダーも新人もない。赤裸々な人間と人間とのつながりだ。
夕食後、ローソクのゆらめくともし火をかこみ乍ら、詩を語り、山を話し、合唱し、そして山の神さまに明日の天気をお祈りする祝詞を捧げる時、一人そっと抜け出して、降る星屑に遠く離れた恋人の瞳を思い出しながら涙ぐむ純情なる彼の心をやさしくいたわってやろう。必要以上にその行動を抑制する様な事は止めよう。悪意を抱く自分の心を恥じよう。それは山に居る時こそ可能な事なのではないだろうか。苦しむ時は皆で苦しみ、楽しむ時は皆で楽しもう。自分の利己的な楽しみの為、他人に苦しみを強いる事のない様注意しよう。そして団体生活における最大可能の自由をお互いに享受して、部員全員が少なくとも、たのしむ条件に於ては同一である様に心掛けようではないか。特権を廃止しようではないか。そして僕は我がワンダー・フォーゲル部が此の様な提案を必要としない程、自由でのびのびとして、ワンダー・フォーゲルの真意に徹しており、恐らく早稲田の最大の楽しい部であること、そして尚一層愉快な、而も統率ある部たらしめんと努力して居ることに、誇りと、満足を感ずるのである。おわり。
 

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15. 「ユース・アーガスイを迎えて」

 
里見 昭二郎

「夏休を利用して、ラファイエット大学生四十五名を中心とする米学生一行六十名が、十三日午后零時十五分トランスオーシャン航空会社の一機を借りきって、ホノルルから羽田に到着した。プリンストン神学校のレフィーヴァ教授を団長として男子二十八名、女子三十二名で、それぞれ神田のY・M・C・A及びY・W・C・Aに分宿した。一行は三日間滞在、東京見物、日本学生との交歓などを行う。」
昭和二十五年七月十四日の朝日新聞は、アメリカン・ユース・アーガスイ(AmericanYouthArgosy)一行来訪の模様を以上のように報道している。
ワンダーフォーゲル運動自体が一般の人々には未だ充分に理解されていないのであるから、ましてや「ユース・アーガスイ」に就いて知っているものと云えば極く一部の関係者だけであって、大部分の人にとってはその名称すら聞いたことがないというのが現状であろう。
ワンダーフォーゲル運動は、十九世紀も終りに近い一八九七年ドイツに起った教育刷新運動で、それまでのあまりにも形式的な実生活と遊離した学校教育を否定して、青少年の人間完成の場を大自然の中に求め、その美しき山野の遍歴を通じて実践教育を為さんとする革新的な運動であった。その故に此の運動は全世界の若人達に依って熱烈な支持を受け、時を経ずして国際的な青年運動にまで発展して行ったのである。
アメリカに於けるワンダーフォーゲル運動は、「ユース・ホステル」(YouthHostel)なる名称のもとに開始されたが、それは忽にして全国の若人の間に普及され、強固なそして広大な組織網を持つに至った。そして現在では、ユース・ホステルの活動は、他の何れの国々の運動にもまして活発なものとなっている。
ユース・アーガスイは、此のユース・ホステルの一分派とも称すべきものであって、自然遍歴の対称を主として国外に置く活動部面に与えられた名称である。昭和二十四年の夏には、その会員三十三名が我が国を訪ずれ、ワンダーフォーゲルの会員とともに東京を中心として各所にワンデリングを試みている。此の度のユース・アーガスイ来訪に於ても、昨年と同様にワンダーフォーゲルがその歓迎の任に当ることになったので、早稲田大学ワンダーフォーゲル部からも井上・里見の両名を送って、これに参加することになった。日米合同ワンダリングは、勿論自然を愛する若人達の集いではあったが、同時に、それを通じて両国民のより深い理解と親善との育成を計らんとする大きな意義を持っていた。

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「七月十四日、金曜日、快晴」旅程表を開いて見ると、此の日のスケジュールは東京見物となっていた。大型バス三台に分乗して定刻午前九時宿舎前を出発、皇居前に向う。
数多くの東京名所の中から最も効果的な観光コースを選ぶことは、僅か一日だけという時間的制限とその対象が外国人であるという条件では、確かに簡単なことではあるまい。
都市人口世界第四位を誇る東京は、その都市美に於て近代的都市に必要な全体としての調和的要素に欠けるが故、世界第一位の醜悪な都市という不名誉極りない汚名を頂戴している。然しながら局部的な一区劃に目を向けるとき、東京にも少なからざる美しい場所がある事は事実である。例えば東京の中核を占め、或る意味に於ては現代日本の象徴的場所とも云い得る皇居の一劃がそれである。
此の意味に於て、先ず第一に訪問すべき場所として皇居前広場を選んだことは、適切な処置であったと云える。九時二十分二重橋前に到着、小憩の後国会議事堂を訪れるべく皇居前を去り、総司令部前を通過して間もなく参議院に着く。十時三十分白亜の殿堂を後にした一行は、首相官邸、アメリカ大使館前を通って明治記念絵画館に赴き、当館所蔵の美術品を観賞して三十分の後国会図書館を経て宿舎に帰った。
此れで午前中のスケジュールは全部終ったので一同昼食をとるため解散したが、我々両名は中大ワンダーフォーゲル部の厚意でその部室にて食事を済まし、午后一時宿舎Y.W.C.Aに集合した。午后の予定では最初東京大学を訪れる筈になっていたが、都合に依り中止となり、予定を変更して上野の帝室博物館に直行する。原田博士から約一時間に亘って陳列品に就ての詳細な解説を受ける。日本歴史研究の上に貴重な役割を果している数々の陳列物の中で、特に一行の注意を惹いたものと云えば、我々にとっても矢張り関心が持たれる埴輪とか平安朝時代の衣服とか国宝級の刀剣などであった。
三時半上野の山を降り日本橋三越本店に駆けつける。店内は大分混雑して居たが、買物に不便を感ずる程のものではなかった。我が国でも指折りの此の百貨店での買物は、博物館や絵画館見物よりも遥かに多くの満足を彼等に与えたのではあるまいか。異国の土地で我が家に持ち帰るべき土産物或いは思い出の記念品を求める楽しさ喜びは、他人の想像する以上のものであるに相違ない。四時半大方買物を済ました人達と我々は宿舎に戻ったが、残った人々は尚閉店まで買物を続けていた。
夕方から八方園にて催されたスキヤキ・パーティに出る。名園と聞かされて居たその庭も無骨者の私にかかっては只の平凡な庭と同じであった。そこで独言に弁解して曰く。「猫の額ほどの小さな土地に幾ら思わせ振りに造作したところで、其処に生れるものは所詮箱庭的景色に過ぎないではないか。あの荘厳とも云うべき大自然の美しさを知るものには、此んな顕微鏡的庭を眺めて悦に入る奴の気が知れないい。」ところで席に着いてから大失策をやったことに気が附いた。と云うのは周りの人達が皆会に望むような服装をしているのに我々だけが上衣も着ないでシャツのままで出席していたからだ。而も話す英語は全然文法にもないような頓珍漢なものばかり。先程の意気込みは何処へやら誠に支離滅裂の有様で、ビールも飲まない前から赤い顔を曝していた。兎角する中にデザートも滞りなく済んで、十時も余程廻った頃和気藹々たるなかにパーティは終りを告げた。

「七月十五日、土曜日、快晴」
昨日に引続き此の日も快晴に恵まれ、明治大学に於ける日米学生討論会に出席する人々を残して、ユース・アーガスイ会員二十五名、ワンダーフォーゲル所属の学生十名より成る一行は、一台のバスに乗って午前九時鎌倉に向け出発した。大分顔馴染みが出来た故か前日見受けられたような固苦しさとか気まずさは殆どなくなって、車内には頗る和やかな空気が漲っていた。品川を過ぎて六郷を渡る頃には、すっかり打解けた人々の賑やかな会話が、リズミカルなエンジンの音と和して一つの楽しい雰囲気を作り出していた。
桜木町にて小休止をした後海岸沿いに金沢八景に出て、それから神武寺、逗子を経て一気に鎌倉まで飛ばす。若宮大路を真すぐに入って三ノ鳥居の前にてバスを降り直ちに鶴ヶ岡八幡宮の境内に入る。
勾配の急なまるで玩具のような太鼓橋を、彼等は子供のごとくはしゃぎながら渡った。此の奇妙な形をした非実用的な橋をプラグマチズムを哲学とするアメリカ人が見て、何のような気持を抱いたことであろうか。
聞く者をしてそぞろ涙を催さしむる静御前が舞殿の話、更に実朝を刺した公暁が隠れた公孫樹のことなど八幡宮に伝わる数々の興味ある歴史物語を、言葉の解らぬままに遂に話すことが出来なかったのは残念であった。八幡宮を出てから長谷の大仏に廻る。奈良の大仏に次ぐと称せられる此の長谷の大仏は与謝野晶子が歌った如く至極「美男におはす」仏像であるが、両手を膝の上に按じ弥陀の定印を結んで座する御姿には、拝する者をして何か深い感銘を喚び起こせずには措かないものがある。一行の中には附近の店にて購った線香を仏の御前に捧げる人もあったが、その厚意の意義に就いては恐らく何も知らなかったであろう。
予定より大分遅れて午后も一時を過ぎた頃田辺家の門を潜る。簡単な食事を済ませてから、近代感覚を多分に盛った此の家の各部屋を拝見することになった。
我が国の特殊な風土気候に最適の住居として認められている日本家屋は、その主要な建築材料を木や紙や土などの素朴な材料に求めるため、必然的に簡明直截な表現と大胆に開放的な形態を以って、西洋建築には見られぬ独特な建築美を醸し出している。全く建築様式を異にする住宅に住むアメリカ人といえども、その建築美には感歎の目を瞠ったに相違ないだろう。

午后三時田辺家を辞した我々一行は、帰路を七里ヶ浜伝いに取り江ノ島を左に見ながら海岸を走り、やがて片瀬町を抜けて藤沢から東海道に出た。
松並木にさしかかるや「富士山はどちらに見えるのか」と尋ねられる。だが生憎位地の関係で見えない。その旨を答えて視界が開けたときに改めて教えることを約したが、東京に着くまでそれを思い出せなかった。それで遂に彼等は美しい富士の眺望を逸してしまったわけである。尤も機上から群山に抜きん出る富士の雄姿を眼下に見下ろして、その典型的なコニーデの画き出す端正な美しさを心ゆくまで味わったことであろうが。霊峰富士の美しい姿態には、日本人ならずといえども心を打たれた気高さが潜んでいる。我が国の風景の中で外国人に最も親しまれているものは、何んと云っても富士を中心とする一帯の景色であろう。
保土ヶ谷、横浜を過ぎて第二京浜国道に入り、五反田を通って宿舎に戻る。午后五時であった。翌十六日朝、世界一周の途にあるユース・アーガスイの人々は、慌しい日本訪問の旅を終えて次の目的地に向って羽田を立った。
 

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16. 早稲田大学ワンダーフォーゲル部(住所省略)

 
部長 芳野 武雄 安田 平八 山本 稔 長谷部 成美 河野 豊二郎 浜田 昭 石井 栄蔵 田近 勝政 佐野 哲也 長谷部 光郎 手島 宏 柳 和夫 眞野 秦一 里見 昭二郎 覚野 久雄 斉藤 敬一 館 速雄 荒木 保 樽谷 豊樹 栗原 三郎 安達 啓三 田中 昭男
 

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17. 昭和25年度7月以後 事業記録

 
7月1日 部員会 於部室 夏季合宿準備会其他

8日~11日 ユースアーガスイ来日 里見、井上出席 以上2名
9日~19日 ワンダリング 剣-穂高縦走 長谷部成美、長谷部光雄、安田、山本、館 以上6名
20日~26日 夏季合宿 白馬岳-子帰-唐松岳 安田、山本、長谷部、手島、柳、河野、田近、眞野、里見、井上、亀山、覚野、斉藤、荒木、樽谷、田口 以上16名
26日~31日 ワンダリング 白馬岳 安田、山本、手島 以上3名
8月6日~7日 ワンダリング 谷川岳 柳、岩崎 以上2名
8月11日 ワンダリング 葉山海岸 手島、佐野、田近、斉藤、樽谷 以上5名
9月7日 部員会 部室にて 夏季合宿報告検討其他
20日 部員会 部室にて 三峠のワンダリングの準備、合宿発表、正部員発表其他
23日~24日 ワンダリング 河口湖、三峠山 柳、佐野、荒木、樽谷 以上4名
28日 部員会 部室にて 三峠ワンダリング報告検討
10月5日 部員会 部室にて 秋季合宿準備其他
8日~12日 秋季合宿 甲府-昇仙峡-金峯山-韮崎 安田、長谷部、手島、浜田、柳、佐野、覚野、斉藤、館、樽谷、田口、栗原、足立、田中、渡辺 以上15名
12日~15日 ワンダリング 鳳凰山 安田、手島、中上 以上3名
10月~18日 部員会 部室にて 合宿報告及検討其他
22日 総会 事業・会計報告、部則改正
22日 創立1周年記念コンパ親睦会
31日 部員会 部室にて 研究会の設置其他
11月17日 部員会 合同ワンダリングの件其他
15日~18日 ワンダリング 富士山 安田、山本、眞野、荒木、里見、斉藤 以上6名
28日 部員会 部室にて 合同ワンダリングの件
12月21日 聯盟合同ワンダリング 熱海玄岳 安田、山本、長谷部、柳、佐野、覚野、里見 以上8名

◎昭和26年 1月5日~10日 細野スキーワンダリング 安田、山本、手島、荒木、覚野、田中 以上6名

2月19日~24日 菅平スキー合宿 根子岳登山 長谷部、手島、山本、眞野、安達、柳、荒木、覚野、田中、田辺、田口、栗原 以上12名
 

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編輯後期

 
眞野 秦一

創立間もない我が部の発展のしるしともなるべきこの部報が部長始め諸先輩の御熱意又部員諸君の協力により編輯することが出来ましたことを深く感謝し今後一層努力して、より以上の部報を出したいと思います。




彷徨 昭和26年10月8日 印刷
発行者 早稲田大学ワンダーフォーゲル部
印刷者 早大学生共済会謄写印刷部

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