彷徨 第3号

目次

夏季合宿に際して部員諸君に期待するもの  安田 平八
立山・剣岳合宿を顧みて T君への便り  長谷部 光郎
夏山合宿にたいする希望  吉良 洋二
希望の夏山  星野 光正
「夏山特集」編集に当たり  佐野 哲也

 

夏季合宿に際して部員諸君に期待するもの

 
安田 平八
 
ワンダーフォーゲル部の事業の中で、年間通じての四合宿は、最も中心的なものである。春夏秋冬四合宿の中でも、夏の合宿は最も重点が置かれるものである。
 所謂春の合宿といわれるものは、五六月の連休を利用しての、新入部員歓迎合宿のことである。新学年になってから入部した新しい人たちのために行うのであるから、すべて新入部員本位で行い、彼らに部の内容、部の在り方及びワンダーフォーゲルということを知ってもらおうとする。しかし連休利用の前夜発一泊程度のワンダリングであるから、あまり多くのことは望めない。部の空気が解ってもらえるだけでも結構である。
 夏季合宿については後に詳細に述べる事とし、ここでは全部員に課せられる要求の大きいものである事を指摘するに止めよう。
 秋季合宿。早稲田大学では毎年十月中旬に学生週間を設け、一週間ほどの休暇がある。この時を利用して行うものであるが、頃はちょうど紅葉の盛りであり、奥秩父を合宿地に選ぶことが多い。九月応募の新入部員が多いと、夏の合宿に似るところも多くはなるが、何といってもこの合宿の見所は秋の総会で改選された新幹事たちが腕を振るうところである。卒業予定者達が就職のことで最も忙しい時であり、チーフリーダー以下、サブリーダーに至るまで、大概、初めての仕事で少々まごつきながらも、立派に責任を果たしていくところである。
 冬季合宿。卒業試験、進級試験が終わってホッとした所でするものであり、又普通の場合全部員が正部員になっていて新人なしの合宿でもあるので、最も気軽な楽しい合宿になる。2月下旬頃、スキーを主眼として行う。一年を顧み、又次の一年のプランを立てるに最も適していると思われる。
 さて、夏季合宿に戻って少し詳しく述べてみよう。春、秋、冬それぞれの合宿にそれぞれの意義があり、それぞれ重要なものであるが、合宿としてはやはり夏の合宿が最も重要な意義を持っている。七月上旬(夏期休暇に入ってからなるべく早く)に北アルプスへ入る。北アルプスを合宿地とするということは、様々の観点から検討された末であるが、今後事情によって他の所へ行ってもそれはそのときの幹事会の決定によるものであるから差支えない。ただ北アルプスは、日本の夏山で様々な意味で最もバリエイションに富んでおり、且つ種々山のことを知り、自然の奥深く溶け込むのに最も適していると思われるからである。日数は現在の所一週間前後である。出来ることなら十日位にしたいものであるが、これは部員全員の事情が許されねばならぬために、なかなか難しいことである。
 新入部員歓迎合宿に参加した新人も、前述した如くそれだけでは、部の大体の空気がわかったくらいのことであるから、この合宿で本格的に部員としての在り方、ワンダリングの最も基本的な事を教えられる。山登りの最も基本的な事として、(1)地図の読み方 (2)歩き方 (3)火の焚き方 をあげることができる。この事は夏の合宿での特徴的なことではなく、何時の場合にも云われることである。山登りの技術以前の技術、即ち雪渓技術とか岩登り技術などと、いわゆる技術といわれるものの前に技術で、寧ろ山へ行こうというものにとっては常識と云われるべきものであるが、これを知らぬものも少なくないので、特に重点を入れて教えるのである。斯様な常識がなければ合宿以外ワンダリングに行く事もできず、正部員としての資格に欠けると思われる。
 この基本的なこと、技術以前の問題の他にも、山登りの技術としては非常に初歩的なものは一応教える。云うまでもないと思うが、ある程度以上の高度の技術については、好きなものが集まってするのみである。
 斯様な技術的なことの他に、新人にとっては是非解って貰わねばならぬ事がある。解散コンパの時、必ず新人の感想を述べることになっているが、ワンダーフォーゲルという事、早稲田大学ワンダーフォーゲル部に就いて、部の合宿に就いて、この三つの事柄に就いて批判的になり検討することは差し支えないが、否寧ろ結構なことであるが、これらの事がどんなものであるか、ということは解って貰わねばならない。今後何年間か部生活を共にする以上、ワンダーフォーゲルということ、部というもの、合宿という事について、理解を深くしてもらいたいと望むのは当然のことだと思う。尤もこの事は一々頭の中で考えて、理屈をつけるということではなく、身をもって体験し、それで解って貰えれば良いのであって、合宿に参加し、ワンダリングに行っていれば、口で云わなくとも、理屈の裏付けがなくとも、十分解ることと思う。
 この合宿は新入部員のみならず、上級部員ももまた種々習得しなければならぬことが多い。二年部員に就いて云えば、彼らは一年間の部生活で、部の内容、合宿の在り方などという様なことはよく解っているわけであるから、これを直接に新人に伝えなければならない。何故なれば、二年部員こそが新人と直接に接する機会が最も多いからである。新人とは直接一人一人について、歩き方から飯の炊き方に至るまで、指導しなければならない。又それぞれ食料係、装備係等の役がついて、その方の仕事でも新人との接触は一番多いことになる。斯様な各係は煩雑な仕事で、難しいものであるが、一度はしなければならぬ過程として二年部員の時に覚えるのが、適していると考える。そういう係の忙しさと、新人の指導と、リーダーからの命令を的確に全メンバーに伝える仕事と、入り混じって合宿中、休まる閑もないほどであろう。又その上に、近き将来における、サブリーダーたらんがためには、その為に特殊の訓練もなされる。昨年の新人の時の気軽さに比べて、実践して初めてわかることだろう。
 三年部員、四年部員は通常チーフリーダー、リーダーの他、サブリーダーとなって参加するであろう。4年部員の大部分は、山へ行く合宿としては、恐らく最後のものであろう故、最後の華を飾る立派な合宿となる様最高の努力を払うであろう。三年部員としては、秋からのチーフリーダー及びリーダーとなるべき者達であるから、上級部員よりリーダーシップというものを、十分に学びとり、それに備えるべきである。この合宿においても、今までの経験をできるだけ生かし、後進の指導にもあたって貰いたい。リーダーシップについても種々と述べたい事が多くあるが、紙数の都合もある故、ここではこのことについての詳述は避けて、他の機会に譲り、ただ特に合宿において、部としての統率をとることを忘れない様強調したい。
 部の統率ということは、部である以上、又特に合宿に入った以上、団体生活であるから、是非とも必要なことである。デモクラシーの世の中なって、強制ということができる限り排せられるわけであるが、団体生活である以上、強制がある程度加えられることはやむを得ない。前にも少し触れたことがあると記憶するが、メムバーとしては、このことは十分理解して山に入って貰いたい。又リーダーとしてもデモクラシーの世だといっても、部の統制のためには止むを得ないことなのだから遠慮せずに、心をひきしめて、行って貰いたい。前に述べた新人に対する要望の中のワンダーフォーゲル・部・合宿に対する理解という事と、この事とは相関連する処もあると思うが、要はリーダー・メンバー共に、真の意味のヒューマニズムに立脚して行動すれば間違いはないと考える。リーダーはリーダーとしての役目を、立派なリーダーシップをもって行い、メンバーはメンバーとしての分に応じてメンバーシップを果たしていくことを各々心掛けて頂きたい。
 最後にもう一つ。これは特に新入部員に対して注意したいことなのだが、このように大きな意味を持ち、なすべきことも多くある合宿である故に、勢い、全部にかかる負担が多くなり新人にとっては、山の楽しみという事よりも、辛さの方が大きく感じられる事があり得る。時には苦しみ、辛さが先に来て、楽しみ喜びが全然味わえない事があるかもしれない。しかし、山での楽しみというものは、都会における楽しみとは少し異なり、又単に享楽的に楽しむというものではないと思う。苦しみの中に楽しみを見出す事、苦しみそのものが楽しみとなること、があってよいのではなかろうか。否寧ろ、そういう苦しみが楽しみになるものにこそ、真の楽しみがあるのではないだろうか。
 「彷徨」創刊号において私が述べたように、我々の部は自然に還り、自然を愛する部である。即ち自然を(端的にいえば山を)楽しむ部である。自然を楽しむためには、享楽的な楽しみは寧ろ排し、苦しみの中から楽しみを見出す真の楽しみを味わってもらいたい。山が本当に好きになってくれば、こんな事云われずとも苦しむために山に行きたくなり、行くようになるものだが、やはり初めの中は「来るんじゃなかった」と考えることも、しばしばあることだから、特に合宿においてこの事を始めから頭に入れておいたほうが良いだろう。誤解を避けるために書き加えるが、今私の述べた苦しみからきた楽しみが真の楽しみだ。ということは、勿論その楽しみのみが山での楽しみであるということを意味しない。寧ろそれは山での楽しみのホンの一部分である。山へ行って種々楽しみは多いものである。例えば、晴れた頂上での展望とか、御来光とか、又お花畑でのコーラスとか、しかし普通のハイカーなどのいう苦しみも多いと思われる。極端なのになると、長い道を歩くとか又重い荷を背負うのがいやだとかである。しかしワンダラーとして「歩く」ということは楽しみの一つであるべきであり、又重い荷を背負うという事も、それ自体が楽しみに転嫁できるものである。こういう意味で普通の意における楽しみというものは大いに楽しんでもらいたいし、尚その上に苦しみをも楽しみにしたならどんなに楽しい山登りができるか。ということを考えて貰いたいのである。
 何にしても、折角の合宿である。教育とか訓練とかの要素が入るとしても、折角楽しい山を味わって、楽しい合宿とする事を希望する。柄にもない題を承って、まとまりのない文になったが、これをもって部員諸君に期待するものとする。
 

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立山・剣岳合宿を顧みて  T君への便り

 
長谷部 光郎

梅雨も中休みという所のこのニ三日、僕は閑を見ては地図を広げて夏のプランを練っています。恐らくは君も忙しい仕事の間に同じようなことをしているのでしょう。
 昨年の今頃はすっかり細目まで決定して、君とY君と3人でパーティーの編成をしていたわけですが、あの合宿は、我々3人にとって現役として最後のものでもあったし、思い出の深いものでした。
 いろいろトラブルが起こりかけたりしましたが反省してみるとその全ては、(全くMくんの指摘した通り)リーダー側の不徳、未熟に依っていたようです。人と人との集まりですから何か起こりかけることは止むを得ないでしょうが、それをごたごたさせてしまう事は人の上に立つ者の不始末でしょう。慣れない部員が多かったせいで、剱沢小屋でまだ一部の人が働いていたにもかかわらず大部分の部員があいさつもせず寝てしまったこと。何時でもリーダー達がきをつけねばならない例だと思います。
 昨夏の合宿で今まで部になかったものを得たというメリットの点では小パーティー制の採用が考えられましょう。始め例年の如く僕がチーフとなり君達数人の助けを借りて大パーティで行くという計画だったあの合宿が、僕の主張が通って原則として行動に自主性を持つ三パーティによって行われた事はいろいろな意味を持ったと思います。大学山岳部が採るポーラ法による登山の際のパーティ編成は、交代はあるとしても登はん隊、サポート隊という様な形になるわけですが、我々のは昔の高校等が用いていた行動だけを別にしていく方式で、事実上は炊事等の制約から基本線をかなり離れたとはいえ、僕の気付いただけでも二三の長所を発揮しました。
 合宿の後で君とMと3人で宇奈月温泉で話し合ったことを今一度書いてみましょう。第一に小パーティ制はリーダーの受け持ち人数が明確なので、各人のコンディションが非常によくリーダーにわかります。そして、ちょっとした小休止の際にも、新人の諸君は勿論、中堅だった諸君も簡単な我々の会話から山に関する知識を有効に得られたわけです。そういう面があればこそ、五十歩百歩と云われるその差の五十歩だけでも先に歩んだ我々が出来るだけの努力をして合宿という形のワンダリングのイニシアチーフを取ったわけでしょう。そしてバリエーションと言われるコースを採らない我々にとっては比較的数少ないコースを歩いても、或時は峠で待ち合わせ、或時は行き遇いそして別れる時にはパーティ別になって右左するという事が山での楽しさを増したものです。
 小パーティ制は(昨年の経験からいっても)技術的に面倒が多いし短所もありますが、君や僕の考えるワンダラーとしての合宿には全く適していましょう。昨冬の君との二回のスキー行で話し合った様に、そして行動したように、二人でもパーティとして動くというのも面白いでしょう。それまで自主性を主張しなくても自然に調和した我々の仲は言わばあの合宿のデベロプした精神かも知れませんね。
 昨夏の合宿について又これは何時の時でも考えるのですが、検討会の時によく反省して発言し、自らも責めリーダーも責める人は非常に少ないのですが、その少ない人々が結局後に部で中堅か幹部になっています。今夏の後立山縦走では少なくとも新人諸君全部が積極的な意見を出して我々を喜ばせてくれるといいがと希望的観測をしています。
 昨年は合宿の二三日前に君と富士登山でトレーニングしましたがあれは効いたようです。今年も行く前に日帰り位で歩いてから行くつもりですが出来たら一緒に行きませんか。山に全然行かない山友達ではお互に話も出来ませんからね。
 では身体に気を付けて下さい。
六月十五日記
一山友
 

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夏山合宿にたいする希望

 
吉良 洋二

 入部して一年目、又夏の合宿が近づいてきた。カラカラに渇いた何の潤いもなかった去年の夏の合宿以来この一年間、夢中になってワンゲルの空気、雰囲気を吸収し、掻込んで来た。そして1年目の今、其等を再び想い起し、取出し、もう一度咬みしめて、今年の夏山の参考にしたいと思う。
 団体生活の為に自己を或る程度犠牲にし、尊い金額を消費して行く合宿が、ただ単に皆が恙なく予定通り山へ登り、帰ってくる、即ち「山へ入って来た」ということしか残らないような合宿ではなく、何物かを掴んで帰ってくるような合宿であってほしい。そしてワンゲルの最大の行事であり、中心である合宿が、単なる「アイヤド」ではなく、「ガッシュク」であってほしいのである。同じ釜の飯を食うという言葉から生まれ出る多くの意義あるものを期待している僕に、それがただ単に同じ釜の飯を皆で一緒においしく食べたというにとどまってほしくはないのだ。
 団体的行動生活においては必ずそこから醸し出される雰囲気がある。そしてその雰囲気によって、山は楽しく想い出深く意義深くなるのであり、また逆に味も素気もなく、どうして山へ来てしまったのだろう、早く日が経たないか等と考えながら歩かざるを得なくなるようになってしまう。 この重要な雰囲気を左右するのは、その合宿の主導者である。リーダーと上級部員の態度だと思う。ワンゲルにおいては、必ずしも何処何処の頂上を極めなければならぬという目的とか、一里を何分以下で歩き、何時何分までには死んでも着かなければならぬという鉄則もないのであり、極端に言えば一塊の雰囲気で、山を歩けば、即ち自然を愛し、楽しみ、意義ある日々を送ればいいのだと思う。上級部員になっても、部の雰囲気がどうなっているかに気づかず、又気がついても何かしようという努力又意欲すら示さないでは、行動の運営は巧くいかない。雰囲気をもっと積極的に奥深くしたのが、チームワークであると思う。
 残念ながら僕の目に映った現在のワンゲルには、パーティーワーク的なものは存在するかもしれぬが、チームワークらしいものは見当たらない。普通のスポーツのように、毎日でも出来るスポーツは、毎日皆が顔を合わせて練習しているうちに、良い雰囲気は出て来るのであるが、山へ行く団体においては、毎日山へ行っていればそれこそ極上の雰囲気、チームワークが造り出されるかもしれぬが、一年に何回という合宿に於いて、それを造ろうとするのだから余程の企画と演出を要する。
 人の失敗、ミス、弱点をカバーしてやろうとはせず、暴いたりたたいたりするのみに終わり、自分自身は絶えずその事を心配し、他人はどうでも良い、自分さえ良ければという観念のもとに行動していればチームワークなど出来る筈はないのである。なるべく他人にやらせ、責任を逃れようとする傾向は人間にはあるかもしれぬが、同じ寝食を共にする団体生活に於いて、それを十二分に発揮することはやめて欲しい。そしてしてもらっておいてケチをつけるほど虫の良いことはなく、具体的注意を与えずに、ただけなすだけでは破壊的である。その事に感心を持たずに任せたら任せきりという根性は非常によくないと思う。足りないときは補ってもらい、余った時は助けてやるという気持ちを皆が持っているときに、その人は精神的にゆとりができ十二分に活躍できるのではないだろうか。
 上級部員は、部の雰囲気に慣れて山行の回数も多く、精神的、肉体的に多くのハンディキャップを持っているので、例えば、炊事のとき、上級部員は火を燃やし、飯を炊きながらも周囲の景色を眺め、山の空気に浸ることができるが、新人はそうはいかなく、炊事のときは、そのことしか考えられず、余程図々しい奴でない限り、慣れない事に対する精神的負担は非常に重くなるので、そのことを良く頭に入れて上級部員は事に当たって欲しいと思います。
 最後に、今年新しく入部した人に一言。多くの期待をもって入部した君達は、その期待が部の空気、雰囲気に染まって消え去らないうちに、その期待していたものを発表するなり、書き留めて置くことを望む。自分の理想形態は良きにつけ悪しきにつけて消え去り、悪く言えば、マヒ的生活を続けるようになってしまうからである。そして部に対する第一印象的なものは多くの有益なものを持っているし、その生活に満足しているとはいえないまでも、マヒ的状態になっている(善意なる)年輩部員にとっては、良い反省の材料になることがあるかもしれず、又部内に新しい空気が入ってくることになる。しかし、ここで勘違いしてはいけないことは、君達が高校でやってきたことを、再現しようとしてはいけない。大学は高校の延長ではないのだ。全く異なった新しい生活を始めるのだから、そのつもりで、新しい気持ちでやってもらいたい。
 ワンダーフォーゲルをスポーツ団体であると、とっても、レクリエーションであると断じても、その他どのように考えようとも、真面目に行動してもらいたい。あくまで学生団体としての真面目さを清純さを欠かないで欲しい。顔を合わせる度にいわゆる「タテ」の関係は深くなり、親しさは増していくであろうが「親しくなれば礼儀はいらねぇ」という態度は断じて止めてもらいたい。「親しき仲にも礼儀あり」という諺を頭に入れて、謙虚な気持ちで親しさを増していってほしい。互いに親しくなることが、ワンゲルの活動を円滑ならしめるために、最も重要であり、且つ根本的なものであると信じているのだが。上っ面だけの交際だけに止まらず、もっと奥深くまで突っ込んで、美はしい友情に包まれた部にしたいものである。美はしいものを造るに一番適した舞台は大自然なのだ。君達は早稲田大学ワンダーフォーゲル部の部則に書いてある「しぜんを愛し楽しむを目的とす」という言葉から、総てを出発させ、発展させていって欲しいです。
 

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希望の夏山

 
星野 光正

 私は入部してからの年数はともかく、山の経験に至っては、お話にならない程浅く、未熟なものであるが、それでも命題に俗って、僅かの体験を反省し、又新たなる研究に、取り組み巣新させながら、カールブッセのイーバーデイベルゲンではないが、希望の山々を探し求めていきたいと思う。冒頭に断っておいた通り、山の経験不足を推して述べる都合から、文体に少しく想像性を帯び、又ロマネスクを含むことはあらかじめ、心に留めていただきたい。
 春夏秋冬、山の表情が自ら異なる様相を呈してくれるように、我々も又季節によって、種々に、山を選定するが如く、まず第一に、夏山という一つの条件に対してその季節における吾人の感情というものを根底に盛り込みながら、一つ一つのポイントを制服して行きたい。
 さて夏山という一言が我々に与える刺激的感覚は、どなたにも御存知の如くはち切れる様な生命力の横溢と云おうか、何物かに身をもって、ぶつかっていきたい意欲の最も旺盛な時である。外に出て空を望めば全身に感ずるのは尚更のことであるが、たとえ外に身を乗り出さなくても、窓際にぽっかりのぞかれる空の青さ、高さ、もくもくとふくれ上がる入道雲の男性的色彩、強烈な太陽、そこにはあくまでも澄んだ青さに慕かれて遠くを見つめる夢見るような瞳があり、入道雲のふくれ上がるそれにも似た、雄大さを慕う意志に力がある。
 私の夏山に対する希いも、その高まりつつある感情の上に、勇躍前進するのである。「では何処の山」と考えるすきもなく、ひらめくものは連々突々と打続く俊峰、また俊峰の北アルプスの偉容、彼である。まさしく彼以外の何物も、当てはまらない。その刹那は、何々岳とかいうような、特定のピークは、思いもよらず、唯一貫したアルプスそのものそのものの連想に酔うだけである。然もこの最も深き自然に挑み征服したときの、胸の奥底からこみあげる感慨と云おうか、この期に接した吾人の感情は筆紙につくせるべきものではなく、そこには人間超越の神秘に触れる感情もあるであろうし、又最も現実的に征服の開巻が襲うであろう何にしろ、この瞬間的最高の感情が私をして容易々々と山に引っ張り込むのである。
 さてあまりアルプスを観照的に見てきたようでその実感を薄めてしまう恐れがあるから、自分の浅い体験を土台として、少しずつ範囲を限定させて行きたいと思う。即ち、私が昨年夏生まれて初めて高山に接したのが、北アの剣岳である。あの時は唯夢中で皆んなの後に付いて行くのが精一杯の仕事であったから随分惜しい所をみすみす見逃したような気がする。あの弥陀ヶ原一帯の高原は良かった。眉をそば立てるような、左手に大白岳の黒々した山肌、前方には、夕日に照り映えて、赤々と浮き出されている、立山。両者の間に厳然として天空を疑するがごとく、突き立っているのが剣岳。その金剛色の肌にさつさつと、一筆二筆ほどこした雪渓の山化粧、遠くかすむは何処の峰か。 この風景は普段でも夢多い私を、現実から彼方へと、益々夢遠くさせてくれたものだった。絶壁にへばりつき肝を冷やし、あえぎあえぎ登った頂上から眺望遠離、全てを忘れて自然の驚異に眼をみはった剣岳、この感もアルプスに於いて、南アより、北アに移るに従って、著しく増大するのではあるまいか。
 
 私は一つ所に立ってその感を味わうには、未だ年が若く、あまりにも気短すぎる。であるからやはり他の峰からもう一度噛みしめてみたいのである。時に渓谷の美に接したいし、時には自分から異なった山の柔らかみにも、身を投げかけてみたい。畢竟私は一面性だけで満足出来ぬ欲張り者である。即ち、自然の一大交響楽が欲しいのである。クライマックスばかりでは息が切れてしまう。突如低まる弦の囁きの中にヴァイオリンの美しい優しい旋律の流れ、又もや湧き上がる全楽弦最大の轟き、その高低々々をアルプスの北中南の中に見出し得たら幸いなのである。こういうわけで私の筆も当初の意気込み程、強さを有しなくなって来たが、でも判然と主観からの判断は、場所を北アルプスに規めなければ気がすまされぬ。同好諸氏よ、何しろ私は外観ばかりから筆を進めて来たから、あまり頼りにならないのである。然るに諸氏達はその点に於いて数段勝ること必須であるから、この憐れむべき男に教えてやってはくれますまいか。併し、私としても、諸氏の言を聞く耳を持つ以前に、紙上に、具体的な選定を表明しなければならぬから、諸氏は軽蔑されるかもしれぬが、山岳写真で述べてまうつもりである。即ち、北ア、中ア、南アを分けて推量すると、やはり地理学上から云って、北アの花崗岩からなる起伏の激しさに於いて、他に勝るものはなく、中アとても勿論相似てる点はあるにしても、残雪に於いては比ではない。南アは水成岩であるから、起伏は推して知るべしである。然して、地理学上、降雪量の多少、気候の相違から起きる、自然の造化の御手は黒部の上中下に亙る廊下の峭なる峡谷を作らしめ、又焼岳の麓には、壮麗な上高地の渓谷を作らしめた点に於いて北アは私のはなはだロマンティックな空想に拍車をかけるのである。さて私はこの脱線気味な筆に到々決定的な(希望の山)の態度を表明ざるを得なくなった。希望は「北アルプス縦走」即ち、大体は、朝日岳、白馬岳~針の木のコースである。さあ、文章の回りくどい縦走をやってから、今度こそ本当の縦走をやってみたいものである。夏よとくと来れ! 山が招くよ、雲の上。
 

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「夏山特集」編集に当たり

 
佐野 哲也

 吾々は先に部報第一号に於いて各自の「山行記」や「自然観」を交換することによりワンダーフォーゲルというものの性格を樹立しようとしました。そして第二号に於いては再に「ワンダーフォーゲルとは」という問題を強く推し進めました。
 この事により部員全てに対し、部の活動への「自覚」と「創意」とを促した。そして今ここに第三号を発行する。
 本号は先号において採り上げた問題をさらに強化し、部員の「団結」と「創意」と「敬愛」とを切望し、以って部が今、切実な問題としている処の「内容の充実化」を計らんとするものであります。
 そして「部員の団結」にしても「部の内容の充実化」にしても、直接実践的な問題と結びつく限り、本号の刊行主旨もまた何らかの形で実践性を帯びなければなりません。
 本号が単なる第三号としてではなく、特に「夏山特集」とせられた意図が此処にあるのです。即ち本号が而えて夏山合宿を前にして刊行せられたことは、本号の実践的な主旨「部員の団結と敬愛の精神」が、そしてそれによって「部活動の内容の充実化」が合宿に於いて、より多く実現されんことを切望して止まぬからであります。
 本号こそは本年の「夏山合宿充実化」のための「一方途」であり、「一奉仕者」であったと断じて過言ではないのであります。例え本号が一片の方途であり、一奉仕者にすぎなかったとしても、その内に盛られた主旨が部員諸君に快く取り入れられ、素直に実行せられて居ったならば本号の任務は大きな意義を生み出すことになるわけであります。
 編者はこのために昨夏合宿を回顧し、反省し、以って此処から学び得た貴き体験をこの度の合宿に於いて、大いに活用させ、何かしらプラスになるものを召集したい。そして今度の合宿を、より充実したものにしたい。と深く深く切望したからなのであります。
 然し本号の刊行せられた任務が夏山合宿の終了と同時に、その任務も終えるわけですが、尚本号が採り上げた「部員の団結」と「部の内容の充実化」とは夏山合宿以後も永く永く部員諸君が考えてゆかねばならぬ問題だと思います。
 そして「団結」とか協力「敬愛」とかは共に我々の「若さ」と「自由」とを基礎として、はじめて果たしうるものであると思います。そして「自由」ということは如何なるものからも「自由」であること、それは自己の外部に対しても(社会に対して)また自己の内部に対しても全く「自由」でなければならぬと思うのです。
 自己の本来の姿は歪曲された一方的な知識や感情によって拘束されることを嫌うのです。人間そのものへの要求は「真の自由」に於いてあらゆる拘束から開放されんとする欲求であります。斯る「自由」とか「人間本来の姿」とが、斯る意味で「純真自由な心情」として表現されるのであり、かかる純真自由な溌剌たる生命力そのものが「若さ」であるということができると思うのです。
 我々が切望する「団結」「協力」「敬愛」が、吾々の「若さ」と「自由」とによって、部員同志が本当に人間としての深い結び合いによって、お互いの友情を深めてゆく時、我々のワンダーフォーゲル部が、部として「内容の充実した部」となり、我々の「憩いの場」であり、我々の「親愛なる希望の場所」となりうるのではないでしょうか。私はロマンロランの言葉、「美しきロンドを組もう」という一句を再び諸君にプレゼントしたい。
 本号に於いては、長谷部先輩や安田先輩たちが昨夏合宿に於いてこのために大変努力され、その方法を大パーティ制から小パーティ制の採用を行い、此れにより各パーティ間の、またパーティ内の親睦一致を計られようとした。
 実際に行った結果がどうであったにしても、こうした昨夏合宿の回顧のためにも、この度はゼミナール等でお忙しいにも関わらず長谷部君に原稿を書いて頂けたことを大変良かったと思っています。
 又長谷部君の文章の中で「昨夏の合宿について、又これは何時の時でも考えるのですが、よく反省して発言し云々」とありますが、「その非常に少ない人が後の部の中堅に」という処の、その少ない人の一人として昨夏合宿のときの吉良君と現在の吉良君とを比較回想せしめます。当時のコンパにおける長谷部君と吉良君との対談が再び本号に於いて再現した、の観があって編者として極めて「妙」を得たの感があり、喜んでいます。 又星野君も昨夏合宿はきっと思い出深い事と思いますが、当の星野君は剣沢小屋の一件で危く「トバッチリ」を食った御当人ですから、これまた夏山回顧にはきわめて縁の深いわけである。
 それから「記録報告」として田中君の一部を都合上カットした以外は、そのまま載せました。この「記録」は極めて優れたものであり、細目にわたって記述してあり、要を得た点も多く、田中くんの仕事に対する真面目さと誠実さには深く感激しました。
 「山の歌」は知って居る者は知らぬ者に教えつ、教えられつして音痴ぶりを発揮すれば、上々だと思います。 合宿は大いに楽しくやりましょう。自然を楽しむ以上、僕等も「自然の児」となり「自然そのもの」に帰りましょう。山は悠久です。自然は清浄です。僕らは浪漫的なものを求めます。みんなで青春のこうぜんたる意気を養いましょう。
 

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